曹操を裏切った漢たち!?張邈と仲間たちについて考察


はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

曹操を裏切った漢たち(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



何かあったら張邈を頼れ

赤鎧を身に着けた曹操

 

興平元年(194年)に曹操は徐州の陶謙(とうけん)を討つために出兵。前年に曹操の父の曹崇(そうすう)が陶謙配下の兵士により殺害されたので、それを名目に出陣したのでした。

 

曹操は出陣前に家族に対して「何かあったら張邈を頼れ!」と言い残しました。側近や身内なんかよりも、親友の名前を出すとは曹操はよほど張邈を信用していたのでしょう。

 

濮陽の戦いと張邈の最期

呂布のラストウォー 呂布

 

だが、張邈は曹操の信頼を裏切って呂布を兗州に迎え入れます。曹操は張邈と陳宮が裏切ったことを知ると、すぐに陶謙征伐を切り上げて兗州に戻りました。

 

爽やかな荀彧

 

戦いは約1年に渡って行われました。最初は劣勢であった曹操でしたが荀彧(じゅんいく)程昱(ていいく)の奮戦もあり、興平2年(195年)に呂布を撃退に成功。

 

劉備 呂布 肉取り合い

 

呂布と陳宮は徐州の劉備(りゅうび)のもとまで落ち延びました。張邈の弟である張超は戦死。張邈は袁術に援軍を頼もうと逃走しますが、途中で部下に殺害されました。

 

処刑を下す曹操

 

張邈の家族は曹操により皆殺しになったそうです。親友に裏切られたことがよほどショックだったのでしょう・・・・・・

 

許された人物(1) 魏チュウ

曹操と会見をする陳登

 

この反乱では張邈やその家族のように皆殺しになった人もいますが、逆に曹操に許されている人物もいました。2人紹介します。1人目は魏チュウ。

 

漢字が出なかったので、カタカナで表記します。見苦しくてスイマセン・・・・・・

 

魏チュウは曹操が信頼していた部下です。張邈が反乱を起こした時に多くの部下が寝返ったのですが曹操は、「魏チュウは大丈夫!」と自信がありました。

 

ところが後で聞くと魏チュウは平気な顔で裏切っていたことが判明。それを知った曹操は「覚えとけよ、魏チュウ!お前が忘れても、俺は忘れないからな!」と叫びました。

 

結局、呂布滅亡後も逃亡していた魏チュウは、建安4年(199年)に河内で捕縛。本来なら死罪ですが、曹操は彼に才能があることを思い返したので死罪をやめて再任用することを決意。河内の統治を任せました。

 

許された人物(2) 畢諶

 

2人目は畢諶(ひっしん)。畢諶も張邈の反乱で加担した人ですが、彼は事情が違います。彼は張邈から親を人質にとられます。主従関係よりも家族を優先した彼は曹操に許可をもらい張邈のもとに行きます。この点は徐庶(じょしょ)と似ています。

 

さて、張邈が敗北すると畢諶は捕虜となり戻りました。曹操の部下たちはどうなるのか心配していましたが曹操は「親孝行な人間だ。主人に対して二心を抱くわけない」と彼に対して何も問いませんでした。

 

このように曹操は寛大な処置で済ませたパターンもあったのでした。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が曹操を裏切った張邈と、曹操が許した魏チュウと畢諶に対しての解説でした。曹操の辺譲殺害事件は、自分に従う者と反抗する者をあぶり出すことが目的だったのではないかと私は推測しています。

 

曹操は兗州に着任したばかりだったので、誰が味方か敵か区別したかったのでしょう。しかし、曹操も張邈が盾突くなんて全く予想していなかった思います。だから張邈が反乱を起こした時に、かなり驚いたのでしょう。

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。

この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。

 

関連記事:報われなかった稀代の軍師陳宮をわかりやすく紹介

関連記事:呂伯奢一家殺害事件とは?陳宮が曹操から離反した原因だったの?

関連記事:呂布の部下・陳宮は曹操を助けてはいなかった?魏晋世語のウソとは?

 

陳宮

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

-三国志の雑学
-,