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この記事の目次
何かあったら張邈を頼れ
興平元年(194年)に曹操は徐州の陶謙を討つために出兵。前年に曹操の父の曹崇が陶謙配下の兵士により殺害されたので、それを名目に出陣したのでした。
曹操は出陣前に家族に対して「何かあったら張邈を頼れ!」と言い残しました。側近や身内なんかよりも、親友の名前を出すとは曹操はよほど張邈を信用していたのでしょう。
濮陽の戦いと張邈の最期
だが、張邈は曹操の信頼を裏切って呂布を兗州に迎え入れます。曹操は張邈と陳宮が裏切ったことを知ると、すぐに陶謙征伐を切り上げて兗州に戻りました。
戦いは約1年に渡って行われました。最初は劣勢であった曹操でしたが荀彧と程昱の奮戦もあり、興平2年(195年)に呂布を撃退に成功。
呂布と陳宮は徐州の劉備のもとまで落ち延びました。張邈の弟である張超は戦死。張邈は袁術に援軍を頼もうと逃走しますが、途中で部下に殺害されました。
張邈の家族は曹操により皆殺しになったそうです。親友に裏切られたことがよほどショックだったのでしょう・・・・・・
許された人物(1) 魏チュウ
この反乱では張邈やその家族のように皆殺しになった人もいますが、逆に曹操に許されている人物もいました。2人紹介します。1人目は魏チュウ。
漢字が出なかったので、カタカナで表記します。見苦しくてスイマセン・・・・・・
魏チュウは曹操が信頼していた部下です。張邈が反乱を起こした時に多くの部下が寝返ったのですが曹操は、「魏チュウは大丈夫!」と自信がありました。
ところが後で聞くと魏チュウは平気な顔で裏切っていたことが判明。それを知った曹操は「覚えとけよ、魏チュウ!お前が忘れても、俺は忘れないからな!」と叫びました。
結局、呂布滅亡後も逃亡していた魏チュウは、建安4年(199年)に河内で捕縛。本来なら死罪ですが、曹操は彼に才能があることを思い返したので死罪をやめて再任用することを決意。河内の統治を任せました。
許された人物(2) 畢諶
2人目は畢諶。畢諶も張邈の反乱で加担した人ですが、彼は事情が違います。彼は張邈から親を人質にとられます。主従関係よりも家族を優先した彼は曹操に許可をもらい張邈のもとに行きます。この点は徐庶と似ています。
さて、張邈が敗北すると畢諶は捕虜となり戻りました。曹操の部下たちはどうなるのか心配していましたが曹操は「親孝行な人間だ。主人に対して二心を抱くわけない」と彼に対して何も問いませんでした。
このように曹操は寛大な処置で済ませたパターンもあったのでした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が曹操を裏切った張邈と、曹操が許した魏チュウと畢諶に対しての解説でした。曹操の辺譲殺害事件は、自分に従う者と反抗する者をあぶり出すことが目的だったのではないかと私は推測しています。
曹操は兗州に着任したばかりだったので、誰が味方か敵か区別したかったのでしょう。しかし、曹操も張邈が盾突くなんて全く予想していなかった思います。だから張邈が反乱を起こした時に、かなり驚いたのでしょう。
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