晃は多くの三国志ネタの記事を執筆してきましたが、曹操ネタに関しては、ほとんど扱ってきませんでした。
冗談かもしれませんが本当の話です。曹操関係の記事って、書いた記憶が無いのです。そこで今回は曹操を裏切った人物や、曹操が裏切者に対してどのような処置をしたのかについて解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています。
この記事の目次
張邈 曹操が信頼した友人
張邈は曹操の友人です。若い時から人助けが好きだったらしく、そのために屋敷の財産も使っていました。おかげで大勢の人々が彼に身を寄せていたそうです。
張邈は袁紹とも友人であり、何かあったらかけつける「奔走の友」という盟約を交わしていました。
やがて時は流れて、初平元年(190年)袁紹は董卓討伐の際に盟主に選ばれます。袁紹は盟主という立場を利用して傲慢な態度が目立つようになりました。
張邈はそんな袁紹の態度を注意しますが、袁紹は逆ギレ。その結果、袁紹は曹操に張邈の暗殺を命令します。しかし曹操は「張邈は正論を吐いただけだ!」と拒否。曹操がかばってくれた事を知った張邈は、曹操に対して感謝しました。
呂布を助ける
初平3年(192年)に董卓は王允と呂布により殺害されました。反撃に出た残党の李傕たちにより王允は殺されてしまい呂布は逃走。呂布は袁術・袁紹を頼ります。
袁術・袁紹とも最初は友好関係を保った呂布でしたが、やがて争いを起こして出奔となりました。この時、呂布を助けたのが張邈です。彼は困っている人間を見たら見捨てることが出来なかったのでした。
張邈の疑念
ただし呂布を助けたことで張邈は、「ある疑念」が出たのです。実は董卓暗殺当時、袁紹と袁術が天下の覇権を握っていました。曹操と張邈は同じ袁紹系の軍閥です。
張邈は曹操が呂布を助けた件を袁紹にチクるかもしれないと邪推。もちろん、曹操にそんなことをするつもりはありません。だが、張邈は曹操が自分の事を袁紹に密告するかもしれないと思ったのでした。
陳宮の誘惑と辺譲殺害事件
張邈にとどめをさしたのは、曹操配下であり兗州の名士である陳宮からの誘いです。陳宮は曹操に対して恐れを抱いていたのです。曹操は兗州刺史就任当時、名士の辺譲という人物を殺害しています。
辺譲は昔は朝廷でも働いており、蔡邕・孔融・王朗などの著名人と交流がある人物。現代で例えるのなら第三者委員会に呼ばれるほどの知識人でした。
兗州刺史時代の曹操は40歳。若手政治家ではありませんが、軍閥としてはまだ力が弱かったのです。有名人の辺譲からすれば曹操は「たかが宦官の孫」と見下していたのでした。怒った曹操は辺譲と彼の家族を捕縛して殺します。
びっくりしたのが、兗州の名士である陳宮。彼は当時、曹操の配下でしたが辺譲殺害事件で曹操について行くのをやめて、張邈に反乱の計画を持ちかけました。張邈の弟の張超も賛成。彼も曹操とは仲が良くなかったのです。張邈も辺譲のようになりたくないと思って、反乱を決意しました。
【次のページに続きます】