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この記事の目次
かなりクレイジーな森長可
人間無骨を持っていた森長可は、ただ強いだけではなくかなりクレイジーでした。森長可の受領名は武蔵守ですが、それには以下のような無茶なエピソードがあります。織田信長が京都に居を構えていた頃、近江の瀬田に関所を設けて戦国大名には氏名を記して通行させていました。
長可が瀬田の関所に差し掛かると関守が仕事なので、家名を名乗るように言われますが、長可は「急いでおる」として下馬もしないで通ろうとします。
命令なので、関守が前に立ち塞がると、
「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事!」と斬殺。
さらに、「止め立てするなら町は焼き払う」と叫んだので、木戸は開かれました。
その後、森長可がこの一件を信長に話して裁可を仰ぐと、信長は笑い
「昔、五条橋で人を斬った武蔵坊弁慶がいたが、長可も瀬田の橋で人を斬った」として今後は武蔵守と改めよと言ったとか、どうも、森長可は弟の森蘭丸同様に信長に寵愛されていたそうで、よく叱られる割に厳重処分は無かったそうです。
いやいや、真面目に仕事して斬り殺された関守の立場は?
どうも森長可はクレイジーですね。
森長可の最後
本能寺の変後、森長可は小牧・長久手の戦いでは、森長可は岳父の池田恒興と共に羽柴秀吉につきました。しかし、徳川軍を相手に羽黒の戦いに敗れて敗走、戦線の膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将にした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加します。
ここで森長可は不退転の決意で鎧の上から白装束を着て出馬し、岡崎城攻略を目指して奮戦し一色城や長湫城に放火して回ります。そして、岩崎城の戦いでは、池田軍に横合いから加勢して丹羽氏重を討ち、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入して加藤景常を討ち取りました。
ところが、奮戦もここまで、徳川家康も動いており、徳川軍の別動隊により総大将の豊臣秀次は敗走。その別動隊は堀秀政が破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込んで布陣し池田・森隊は孤立します。
もはや決戦は不可避となり、長可は池田隊と合流して、徳川本隊に挑み井伊直政の軍と奮闘するも、水野勝成の家臣、水野太郎作清久配下の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死しました。
その後の人間無骨
即死した森長可の首を回収すべく、森隊が出撃しますが、大久保忠世配下の本多八蔵が突進して森部隊を追い散らします。あわや首と人間無骨は家康の手に渡るかと思われましたが、その時、徳川では首を討ち捨てるように命じており、おまけに八蔵は長可の顔を知らなかったので、ただの侍大将程度に思い、鼻だけ削いで行ってしまいました。
その後、敵兵になりすました森長可の小姓が長可の首を切り落とし、白装束で首を包んで槍の先に引っ掛けて馬に乗って引き上げたので、人間無骨と長可の首は森家に戻って来る事になります。
戦国時代ライターkawausoの独り言
以上、人間無骨と森長可について解説してみました。甲州征伐の手柄で、20万石を与えられた長可は、本能寺の変後の逆境でも「お館様の仇を討つ」と宣言するや、敵軍を蹴散らして美濃まで帰還し、混乱の中で旧領の東美濃を、11ヶ月程度で統一する程の武勇を見せています。
東国に領地を得た者には、本能寺の変後、河尻秀隆のように帰還できずに殺害されたり、滝川一益のように全ての領地を失い、命からがら落ち延びた武将も多いですが、森長可の強さは何なんでしょうね、桁違いです。
そんな長可に持たれたからこそ、人間無骨もその切れ味を如何なく発揮したと言えるますね。
参考:Wikipedia
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