魯粛といえば、『三国志演義』では敵である諸葛亮の智謀に振り回されたり、上司の周瑜や主君の孫権からは無能扱いされる可哀そうなおじさん。
現代の中間管理職の象徴的存在!読んでいる大人の読者の皆様のほとんどが、魯粛に味方したことでしょう。しかし、実際の魯粛はどんな人だったのでしょうか?
そこで今回は正史『三国志』をもとに魯粛と彼の墓について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
この記事の目次
愛人との間の子
魯粛は臨淮郡東城県の出身であり家は裕福でした。父親は早く亡くなっており、魯粛は祖母に育てられました。母親は存命していましたが魯粛とは一緒に住んでいません。右の内容から魯粛は父親と愛人との間の子と分かります。魯粛が母と再会したのは祖母の死後でしたので、祖母の生前は面会は禁止だったのでしょう。
周瑜との交際
富裕層だった魯粛は若い時から人を援助することが好きであり、自分の屋敷の金や田畑を使って困窮している人々を救っていました。魯粛の名前を故郷で知らない人はいませんでした。
建安3年(198年)に居巣に周瑜が赴任してきました。当時の周瑜は袁術配下でしたが、すでに袁術には見切りをつけており、わざと居巣に赴任したのです。周瑜は魯粛に兵糧の援助を頼みます。頼まれた魯粛は早速、周瑜に兵糧を提供。ここから2人の交際が始まりました。
袁術からのスカウトを蹴る!
袁術は魯粛の名声が高いことを聞いて、彼の故郷である東城県で職務に当たらせようとしました。正史『三国志』によると魯粛は袁術がやっている政治が支離滅裂だったので仕える主人ではないと思って、故郷の人々を引き連れて周瑜のもとへ行くことにしました。
「支離滅裂」がどういう意味か不明ですが、おそらく魯粛は前に周瑜が来た時に袁術についてある程度の情報は仕入れていたのでしょう。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『呉書』によると孫策にも面会しており、彼からも非凡な人物として認められています。しかし、運悪く同時期に養育者であった祖母が亡くなり葬儀のために魯粛は故郷に帰ることになりました。
母を人質にとられて孫権に仕える
建安5年(200年)に孫策は暗殺されてしまいます。後継者となった孫権は、まだ19歳の若さ。一国を背負える年齢ではありません。さて、どうしようか迷っている魯粛のもとへ友人の劉曄が手紙を送ってきました。劉曄は鄭宝という男と旗揚げするので一緒に組むことを提案してきたのです。
友人からの誘いだったので魯粛は出発することに決めました。祖母の葬儀を終えると、魯粛は出発しようとします。だが、魯粛に離れられると困ると感じた周瑜は急いで魯粛の母を呉まで呼びます。要するに魯粛の母は人質です。その後、周瑜は魯粛を説得して孫権に仕えることをすすめました。
周瑜の意見に動かされたのか、それとも母を人質にとられたから仕方なかったのか分かりませんが魯粛は孫権に仕えることに決めます。
【次のページに続きます】