今回ご紹介するのは呉の諸葛瑾……の息子の諸葛恪です。諸葛の名に恥じない優秀さを持ち、呉王であった孫権からも可愛がられた諸葛恪。
しかしその諸葛恪は周囲からどんな風に見られていたのか、彼の問題点はどこにあったのかをご紹介しましょう。そして彼の性格を良く表した一つのエピソードも、同時に見ていきましょうね。
「お父さんを馬鹿にしないで!」
さて諸葛恪を語る上で欠かせないエピソード、それは呉王孫権のお酒の席でのやらかしです。この逸話は良く知られているので詳細は省きますが、酒宴で酔った孫権は一匹のロバを連れてきてその顔に「諸葛子喩」と書きます。
諸葛瑾が面長でロバに似ていたことをからかったというアルハラエピソードですが、そこで諸葛恪は孫権に願い出て文字を足し、諸葛瑾のロバとすることで父の面目を立たせました。この話を聞いた人々は流石諸葛家の子だと称えたと言います。確かにここだけ見ると父親思いで頭の良く回る人物とも言えるでしょう。
アルハラの片棒を担ぐ(意訳)
しかし、諸葛恪の逸話はこれだけではありません。彼の優秀さ……というか、相手をやり込める逸話をいくつかご紹介しましょう。
ある日孫権が(また)酒宴を開きました。この際に諸葛恪はお酒を勧める役をしていたのですが、張昭にお酒を勧めた際に「年寄りに無理をさせるな、礼儀を知らないのか」とお酒を拒否。
そこでアルコールハラスメントに定評のある孫権は諸葛恪に反論させて曰く、
「太公望は老いても軍の役目を辞退しませんでした。張昭殿はもう戦にも出てないのに宴会でくらい先頭に立っても無理じゃないでしょう?」
こうしてすでに酔っていたにも関わらず、張昭は無言でお酒を飲んだと言います。
段々と見えてくる一面
その他にも張昭を言い負かしたり、費イに反論したりととにかくエピソードに事欠かない諸葛恪ですが、彼の特徴として「頭がいい」というよりも「相手を言い負かしたい」というプライドの高さというか、もっと悪く言うとちょっと人格に問題ありな一面を覗かせる諸葛恪。
彼は孫権に大いに気にいられましたが、一方で周囲からは散々な評価をされていたのは注目するべきポイントです。
父親、諸葛瑾曰く「家を大きくするけど潰すのもこの子だろう」
叔父、諸葛亮曰く「あんな大雑把でいい加減な性格の諸葛恪に兵糧監督なんて無理だろ」
陸遜曰く「お前の相手を人と思わない性格をどうにかしろ」
ここまで注意された人物が三国志にいたでしょうか。身内だけでなく陸遜からまで言われると、ああ、問題があったんだな……と遠い目になってしまいそうですが、諸葛恪は周囲の心配も他所に成功を重ね、順当に出世、権力を握っていきます……そう、合肥で大敗するまでは。
合肥での大失敗
252年、東興の戦いで勝利した諸葛恪は、再び出撃しようと試みるも反対意見が続出。
それでもそれらを押し切って出撃した諸葛恪、結果は見事なまでに敵に欺かれての大敗北でした。
これにより諸葛恪は周囲からの信頼を失うも、それでも反省などは一切せず、自分がいない場所で行われた人事のやり直し、再び軍を動かそうとします。
しかし既に彼に付いていく人はいなかったのです。孫峻によって諸葛恪は殺され、弟の諸葛融を始めとする一族も皆殺しにあっただけでなく、皇太子孫和の正妻の張氏が諸葛恪の姪であったために彼女と孫和まで巻き込むこととなりました。孫権に寵愛された諸葛瑾の息子の末路としては、何とも言えない最期となったのは言葉にできない顛末ですね。
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