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この記事の目次
真心があれば文言は何でもよい!
利益が昔、熊野の山中に2、3カ月いた時の事、同じ所に祈祷を頼まれてする巫女がいて霊験あらたかなので、皆に重んじられていました。
利益がその巫女に、「どのような尊い文句を唱えて祈祷なさるのか?」と聞くと巫女は
「ほかでも御座いませぬ、王の袖は二尺五寸、王の袖は二尺五寸と一心不乱に唱えまする。
そうすれば、どんな恐ろしい物も憑きませぬ」
と答えました。
利益は笑い、「それは王の袖は二尺五寸ではなく、応無所在、而生其心であろう」
このように巫女の間違いを正し、その意味をも説いて聞かせたそうです。
その後、利益が熊野に行き、巫女の行方を尋ねると、あれから祈祷が効かなくなり他所へ移ったとの事を言われます。利益は、己が正しい事を教えたばかりに巫女の信念に迷いが生じ、祈祷が当たらなくなったのだ、可哀想な事をしたと後悔します。
なので、今回も祈祷師の商売の邪魔をせぬように意味だけを聞いて、ただうなづいて「もっともだ」と答えておいたと書いているのです。反骨心旺盛で嘘が嫌いな利益ですが、それも時と場合で、皆が信じて霊験あらたかな祈祷なら文言は間違いでもいいじゃないか、嘘も方便と考えていた事が窺えます。
ちなみに、応無所在、而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)とは金剛経に由来する言葉で、言葉をいう時には色々打算を加えてはいけない。その時、その時に思った事、感じた事を素直に述べるがいいという意味だそうです。これでは、悪霊退散には使えないですね。
石田三成の祟りに右往左往する人々を笑う
最後に傾奇者らしい皮肉屋の前田利益の逸話を紹介しましょう。郡山を越えた利益はそこで武装した男達に守られた大きな塚に出くわします。
「これはいかなる塚であるか?」と聞いてみると、石田治部少と言う名前の人の亡骸が都から送られてきたのだが、
所によってはキツネ憑きなどが出て、人が多く悩む事があり、タタリを鎮めようと考えて、国々で武具を帯びて地蔵を造るなどし、所によっては塚を造って治部少を祀っていると答えました。
また、三成の輿が都を出た時には極秘で出てきたものの、下野あたりでは治部少が夢に出て人を襲い、その人に告げるには、
「我を送るなら、藁人形を作り具足と兜を着せ、太刀を佩かせて草で馬をつくり金の馬鞍を前後にかけ治部少と胸板に書付直し、又、女2名赤き帷子を着せて、札を下げさせ治部少が母、治部少が妻と書付、以上の人形を6人、青き草、柳の葉にて舟をつくり、五色の幣を立て先に松明、百挺灯し連れ、鉄砲200挺、弓を100張、竹槍、指物まで赤き紫蘇芳染め紙をして袋にしづく。
上書に治部少と書付、武具かきものは、紙などの木の葉にて武具に手入れして、大きな杖刀など指し連れ(以下略)」
このように、夢で石田治部少が言ったそうで、三成の亡骸を乗せた輿が通る所では、山伏、巫女が念仏を欠かさず唱え、生贄と供物を捧げる大騒動で、毎日、多くの人が輿を護衛していて、いわく、今年の不作は石田治部少の祟りではないか?という噂が各地で出ていると言いました。
これに対し、利益は、とにもかくにも笑いのタネ、また人にもなしや?と書いています。
石田三成は前年に首を討たれ亡くなっていますが、しばらくは三成の祟りという事が起きていて、前田利益はそれをお笑い草だと感じているようです。
「なにバカな、生きてさえ家康に勝てなかった男が、死んで未練がましく騒動を起こすものかよ!」
傾奇者前田利益は、英雄の心を知らない庶民の臆病さを笑い飛ばしたのかも知れません。
世間を斜めに見る、人を小馬鹿にして同じ事はしない、利益の辛辣な皮肉屋の一端が見える逸話ですね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
晩年になっても、前田利益の反骨精神は消えておらず、生涯、傾奇者だった事が、旅行記からも垣間見えるような気がします。
権威に逆らい、世間の同調圧力に屈しない強力な個人であった前田利益は、実際に存在していたと言えるでしょう。
参考文献:前田慶次道中日記
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