曹嵩は、曹操の父にあたる人物です。元々は夏侯氏でしたが、宦官の曹騰の養子となり莫大な財産を受け継ぎました。
そして、曹操が生まれる事になるのですが、魏を起こした曹操の父は、非常に史料が乏しく謎だらけなのです。
しかし、その少ない史料を調べて見ると従来とは異なる曹嵩と曹操の関係が見えてきたり、こなかったりしているのです。
この記事の目次
夏侯氏の家に生まれ大宦官曹騰の養子になる
曹嵩は字を巨高と言い、元々は夏侯氏の出身で夏侯惇の叔父であり、曹操は夏侯惇とは従兄弟にあたると言われています。性格は親孝行で、慎ましかったので宦官の曹騰が見込んで養子としました。
その後、官途に就き司隷校尉となり霊帝により大司農、大鴻臚に抜擢され、西暦187年、崔烈と交代し三公の太尉となっていますが、翌年には辞任しています。
キャリアを積み重ねているように見える曹嵩ですが、目立った事績は何もありません。また、この頃の官職は全て売官の対象なので、曹嵩が有能で顕職を歴任したとは考えにくく、売官ゲームに参加し官職を転売して利殖に勤しんでいただけなのかも知れません。
曹操との逸話
曹操と曹嵩についての逸話はほとんど伝わってなく、これから紹介する曹瞞伝によるものが唯一です。
曹操は若い頃、鷹や狗での狩猟を好み、放蕩三昧で節度がなく、口うるさい叔父がよく曹嵩に告げ口していた。
曹操は、口うるさい叔父を黙らせようと思い、道で叔父に遭うや表情を硬直させて口を歪めて動かなくなった。
叔父が怪しんで何をしている?と問うと、「いきなり悪風に当たりました」と答えました。
驚いた叔父が曹操が中風に罹ったとして、曹嵩を呼んでくると曹操は平然と歩いている。
「お前、中風になったのではないのか?」と曹嵩が問うと、曹操は
「中風ではありません。叔父上は私が嫌いなので嘘をついたのでしょう」と答えた。
これから曹嵩は叔父の言を信用しなくなり、曹操は増々、放蕩三昧をするようになった。
曹操と曹嵩の逸話は、たったこれだけですが、息子の事を信じたい親バカでお人好しな曹嵩と抜け目のない嘘をつく、狡猾な少年曹操の対比が出ています。
曹嵩は金権政治家だったのか?
後漢末期、霊帝は足りない財源を朝廷の官職を売る、いわゆる売官をして荒稼ぎをして増やした事が知られています。この金権政治の風潮の中で、曹嵩も官職を買って荒稼ぎをしていたように思いますが、どうも話はそう単純ではないようです。
それは何故か?実は霊帝に官職を与えられると、官人は辞退する事が許されなかったからです。どうしてもお金がない人は借金をして(霊帝はお金も貸しました)官職を買い赴任先で民から税を搾り取り、損を埋め合わせていました。
例えば、清廉で知られた河内の司馬直は、清廉の故に300万銭の低価格で官職を売られましたが、その300万銭もないとして拒否。さらに赴任を強要されると、民に負担は掛けられないと激しく諫奏した上で孟津から川に身を投げて死んでいます。
つまり、収奪して民をイジメないと自分が破産するのが売官の反面の真実でした。
この背景を見ると曹嵩は、霊帝に大司農、大鴻臚に抜擢された上に、崔烈と交代で太尉になったとされているので、全て霊帝からの任命であり、太尉は銭1億銭と記録されています。
太尉については後漢書宦者列伝では、1億銭と宦官に賄賂を贈りゲットしたとありますが、それ以外の大司農、大鴻臚については何も書いていません。もしかして、太尉以外は霊帝による有難迷惑の押し付け売官だったかも知れません。
老齢で引退し礁に帰るが董卓の乱で瑯邪郡に逃れる
太尉になってほどなく曹嵩は官を辞して故郷の礁に隠居します。あるいは、霊帝の売官ゲームに付き合いきれなくなったのかも知れません。元々、温厚で篤実以外に取り柄がない人なら、当時の腐敗した宮廷は苦痛でしかなかったと思います。
しかし、まもなく董卓が暴政を敷くと、戦乱を避けより安全な徐州の瑯邪郡に一族で逃れます。当時の徐州は、陶謙が実力で統治していて洛陽に比較すればずっと安全だったのでしょう。
その後、曹操が兗州牧になり、曹嵩と家族を迎える為に泰山太守応劭に命じて兵を出し、曹嵩の一族は瑯邪郡から泰山郡に移動して待機していました。
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