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この記事の目次
陶謙配下に襲われ死亡
しかし陶謙は、どういうわけか数千の兵を派遣して曹嵩を殺害しようとしました。曹嵩の家族は、てっきり応劭の迎えだと信じて何も備えないでいると、陶謙の兵は曹操の弟の曹徳を殺害します。
異変を察知した曹嵩は、裏手の垣を砕いて妾を脱出させようとしますが、妾は太っていて出る事が出来ません。曹嵩はやむなく、厠に逃れていましたが、間もなく妾と共に発見されて殺害、一家は全て滅びました。ようやく到着した応劭は、曹操の怒りを恐れて官を捨てて逃げ、袁紹に投降したそうです。
また呉書では、曹嵩の財産は馬車で百余両あり、危険なので陶謙が都尉の張闓に命じて200騎で護送していましたが、張闓は財宝に目がくらんで曹嵩一家を泰山の華県と費県の間で殺害し、財宝を奪って淮南に逃げたとあります。
曹操は、陶謙のミスだと怒り兗州から出兵、徐州虐殺の引金になりました。
曹操と行動を共にしなかった曹嵩
ここまでを読むと、曹操は放蕩者の親不孝だったものが、やがて群雄になり若い頃の罪滅ぼしに曹嵩を兗州に迎えに来たものが、陶謙か陶謙の部下の張闓に殺害され親孝行は叶わなかった、なんと悲劇的な最期という感じになります。しかし後漢書宦者列伝によると、そもそも曹嵩は曹操が挙兵した時に同行を嫌がり、一族を連れて瑯邪郡に逃げたと書かれています。
さらに曹嵩は大変な資産家にもかかわらず、曹操の挙兵資金を出していません。武帝紀では、曹操は家財道具を処分して挙兵資金を作ったとあり、魏晋世語では衛茲が家財道具を曹操に与えて援助しています。
こうしてみると、曹嵩は曹操にほとんど関心がなかったような気がしてきます。本当は曹嵩は曹操を危ないヤツだと考え、避けていたのではないでしょうか?
事実は曹操が、父親の身柄を確保しない内に徐州に攻め込んで、それに対し陶謙が腹いせで曹嵩を襲い殺害したのではないのかと思えてきます。
曹嵩の子供達
曹嵩の子供の記載は乏しく、名前も不詳な人までいれると以下のようになります。
長男:曹操
次男:曹彬(薊恭公)
三男:曹〇(海陽亭侯)
四男:曹玉(朗陵哀侯)
不明:不詳(曹安民父)
五男:曹徳
こうしてみると結構いますが、いずれも事績は伝わってなく曹操との関係も希薄であり、曹彬、曹玉については、それぞれ、曹均と曹徽を養子に迎えたという記述しかありません。
古代中国では、先祖を同じくする血縁集団が組織の基礎ですが、曹操に関しては非常に疎遠な印象を受けます。これはやはり、曹操と曹嵩と一族に何らかの確執があり、曹操は曹氏の力を利用できなかったという事なんじゃないかと思います。
曹嵩の生涯
陽嘉4年(135年)頃(推定)夏侯氏の子として誕生、その後曹騰の養子となる。
永寿元年(155年)長男曹操が誕生。
中平4年(187年)崔烈と交代し太尉に昇進するが翌年辞任。
中平5年(188年)役人を引退し故郷礁に隠居する。
中平6年(189年)董卓の戦乱を逃れ、一族と徐州瑯邪郡に避難。
初平4年(193年)曹操が兗州牧となり迎えを寄こしたので移動しようとした矢先、陶謙配下の兵に殺害される
三国志ライターkawausoの独り言
謎の多い曹嵩ですが、そこには曹操との縁の薄さも影響しているかも知れません。息子を信用せず、曹操の挙兵に資金も出さず、同道もしなかった曹嵩。それは、よくも悪くも彼が凡人で、曹操の非常の傑物の才能を見抜けなかったせいか、あるいは感情的に曹操が嫌いだったのか?
どっちなんでしょうね。
参考文献:正史三国志武帝紀 後漢書宦者列伝
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