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この記事の目次
バトルオブ応仁の乱!(応仁の乱雑学まとめ)
ここで長引いただけでなく、非常にややこしい戦いだった応仁の乱についてさまざま雑学を集めて見ました。
東軍と西軍にはどんな大名がいたの?
応仁の乱の東西勢力図ですが、明確なのは東軍に義政ら足利将軍家と細川、西軍に山名と大内、それに西幕府の将軍足利義視という構図です。それ以外にも明確な東軍・西軍というのはわずかにいますが、そのほとんどは同族の争いでした。
足利将軍家をはじめ、管領の畠山、斯波は東西どちらにもいて、それぞれが後継者争いをするために戦いに加わっています。それ以外にも、伊勢、吉良、小早川、武田、六角、京極、姉小路などの各大名。いずれも東西にそれぞれいて戦っています。
京都は焼け野原、どの辺が焼けた?
応仁の乱で実際に焼けてしまったところを確認します。11年間の戦乱で「焼の野原」となった京の都ですが、いわゆる先の大戦で行われた大空襲で起きたレベルにまで焼けたわけではありません。(但し京都は空襲が無かったので、他の都市での焼の野原との比較です)
戦火を受けた場所は、都でも「上京」と言われているエリアに集中しています。これは現在の三条通りから北側のエリア。逆にそれよりも南側の「下京」でも戦火を受けているところはありますが、ごくわずかに点在しているだけです。
上京には、天皇の住む内裏、足利将軍家の住む花の御所がありました。このあたりは広範囲で焼けたという記録があります。現在でも存在する下鴨神社、北野天満宮、相国寺、上御霊神社といったところでは、乱による戦火を受けています。
また建物が焼かれたのは、乱が始まった応仁元年の頃には300軒近くの建物が焼失しましたが、1年後には50軒程度、以降乱が終わるまでの間は、せいぜい毎年十数軒に過ぎない戦い。こう着状態が長かったことがうかがえます。
応仁の乱で特に活躍した守護大名は?
応仁の乱で活躍した大名で上げられるのは、やはり東西の総大将となります。東軍総大将細川勝元は、将軍に次ぐ管領という立場にいました。そして幕府・将軍義政側という立場で、西軍に対峙して東軍を指揮して自らの死まで戦い続けました。
それに対して西軍の山名宗全は数か国の守護を任された大大名です。将軍家の後継者争いを利用して西軍を率いて東軍と激突。乱がおこったときでの、宗全の年齢はすでに60を超えていました。しかし総大将して奮戦しています。
当初は後土御門天皇を西軍側に確保して擁立。さらに義政の弟である義視を「西の将軍」として担ぎ上げます。天皇が東軍に奪還されると、南朝の末裔という「西陣南帝」を擁立して戦い続けました。
応仁の乱の戦い方は戦国時代と違う?
応仁の乱とこの戦いがきっかけで行われる戦国時代との戦い方ですが、これは戦国時代の時期によって違いがあります。初期のころについては、応仁の乱と戦国時代の戦いに大きな違いはありません。
従来では応仁の乱以降を戦国時代ととらえていますが、最近の研究では、応仁の乱よりも25年ほど後に行われた、明応の政変を持って戦国時代の始まりという説が広がりつつあります。ちなみにこの政変により、足利将軍家が義稙流と義澄流に分裂しました。
そのようないきさつがあり、中盤までは主に大名同士の後継者争いや、その争いに乗じてのし上がった家臣による下剋上のような戦いが中心でした。やがて各戦国大名たちが、内部の争いに勝利してから新しい戦い方に代ります。
それは他国への侵攻です。戦国大名同士が領地をかけて争う戦いが中期以降に行われ、やがてその戦いに勝利した有力大名が各地に点在。その中でも、京都に近い尾張・美濃を支配下に収めていた織田信長が一歩抜きに出て、天下統一への道が始まります。
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