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この記事の目次
- 1ページ目
- 応仁の乱とは?
- 応仁の乱の原因は?
- 応仁の乱はなんであんなに長引いた?
- 応仁の乱の勝者は結局、東軍?西軍?
- 2ページ目
- バトルオブ応仁の乱!(応仁の乱雑学まとめ)
- 東軍と西軍にはどんな大名がいたの?
- 京都は焼け野原、どの辺が焼けた?
- 応仁の乱で特に活躍した守護大名は?
- 応仁の乱の戦い方は戦国時代と違う?
- 3ページ目
- 応仁の乱は日野富子のせいなの?
- 応仁の乱を煽った連中(応仁の乱を引き起こした人紹介)
- 斯波氏・畠山氏の家督相続
- 細川氏・山名氏の勢力争い
- 足利義視vs足利義尚の叔父甥対決
- 4ページ目
- アフター応仁の乱(応仁の乱後の歴史)
- 将軍や天皇が戦の大義名分に利用される
- 各地で東西勢力が入り混じり、下極上が始まる
- 貴族や寺社ピエン!荘園が実力で分捕られる
- 戦乱でパオン!土一揆、一向一揆の勃発
- 応仁の乱の後、戦国時代へ突入
- 戦国時代ライターーSoyokazeの独り言
アフター応仁の乱(応仁の乱後の歴史)
最後に応仁の乱以降の歴史、乱による影響についてみて行きます。
将軍や天皇が戦の大義名分に利用される
応仁の乱そのものは、将軍の後継者争いという様相でしたが、これ以降将軍の権力は完全に失墜します。しかし権威だけは保たれておりました。以降の戦いも力ある大名に担がれる形で将軍を立て、敵と戦うという構図が続きます。
これは日本の歴史上でも天皇を戦いの大義名分として戦うという風習があり、あくまで天皇のいる朝廷に刃向う行為は「朝敵」となってしまうからです。そのため皇族を新たな天皇として利用することがあります。
応仁の乱の前の南北朝時代は、南北に存在した天皇を双方についた武将たちが利用しました。応仁の乱から戦国の時代には天皇よりも足利将軍家を利用するパターンが多く、天皇はさらに上の存在という位置づけでした。
将軍は、有力大名なくては何もできないことから、お礼としてその大名の地位を上げるために存在。大名もその権威を利用して自らの地位を上げるために将軍を利用しました。
それは9代将軍以降、常に有力大名の大義名分として存在し、最後は15代将軍義昭を利用した織田信長まで続きます。信長が義昭を追放し幕府が滅びますが、天皇の大義名分としての利用は、時代が下がった幕末でさえも、薩長の雄藩が利用しています。
各地で東西勢力が入り混じり、下極上が始まる
応仁の乱そのものは、京のある山城の国で行われていた合戦。11年もの長い間対立して戦いを繰り広げたため、幕府の政治的な空白が続きます。これは全国の大名で頻繁に行われていた後継者争いの決着にも影響を及ぼしました。
それまでは幕府の意向で決着がつくことが多かったのです。しかし幕府が完全に機能不全に陥ってしまった応仁の乱。その結果大名同士が勝手に戦い始めます。武力のあるものが勝利し、力で後継者が決まる時代に。さらにその大名の地位を狙う家臣の存在も現れます。
応仁の乱で将軍の後継者争いを利用して対立する大名同様に、大名の当主争いも家臣同士の争いに発展。大名よりも力を持った家臣が実権を握り、ライバルを力でねじ伏せる。それでのし上がっても、またさらに下のものが力を持つとその主を支配。
あるいは武力で殺害してのし上がっていきます。いわゆる「下極上」の世界に突入しました。そして応仁の乱は11年で終結しますが、すでに幕府の権力は完全に失墜。名ばかりの存在となり、表向き権威あるだけの存在になりました。
貴族や寺社ピエン!荘園が実力で分捕られる
日本では、奈良時代から「荘園」というものがあります。これは全国の土地が中央にいる権力者によって支配されていた構図です。皇族や貴族・公家をはじめ、次第に台頭する武家、さらに寺社も独自に荘園を有しており、そこに住む領民から年貢を取っていました。
やがて鎌倉時代になると、幕府が全国に設置した守護の下に置かれた地頭が荘園を管理するようになります。そして室町時代になると守護の力が大きくなり、地頭が消滅。守護大名が直接領地を支配するようになりました。
そしてそれまでまばらに住居があった民衆が団結するようになり、村落が形成。また武装するようになります。そして応仁の乱から戦国時代に突入すると、荘園という存在が名ばかりとなり、そのときに力を持っている勢力が、そのまま支配するという状況になります。
土佐一条氏のように公家が直々に荘園のある現地に赴いて、そのまま戦国大名に変貌した例もあります。また大名空白地では、武装化した寺社、あるいは民衆が自治を行う地域も登場。そんな荘園は、豊臣秀吉の太閤検地にて名実とともに消滅しました。
戦乱でパオン!土一揆、一向一揆の勃発
応仁の乱の影響は、将軍家や管領家、地方の大名だけではありません。その下にいる多くの一般人の生活に影響を与えました。当時は普段農作業をしながら、戦になると領主である大名の兵として戦争に向かいました。そこで命を落とす例も後を絶ちません。
また頻繁に領主が変わる時期でもあり、領主が変わるたびに、領地内の方針や収める年貢の量なども変わります。一般の民衆の生活も混乱し、我慢の限界に達してきました。そして行われたのが土一揆です。一般の農民たちは団結するようになりました。
支配者たる領主に、政治的な要求「徳政」を求めます。しかし領主が受け付けないと、反乱(一揆)を起こしました。また寺社、特に浄土真宗(一向宗)の寺院は、この民衆を利用して、戦国大名のように武装。同様に反乱を起こして大名と戦います。
これは一向一揆と呼ばれるもの。戦国時代を通じて大名たちを悩ませた存在です。戦国時代には農民も独自に武装化。大名の兵隊として参戦したり、自衛のために戦う能力を備えたりしていました。このことを無くしたのが、豊臣秀吉の刀狩りです。
応仁の乱の後、戦国時代へ突入
将軍家や有力大名の後継者争いに端を発した応仁の乱では、当初京都での衝突が中心でした。やがて地方に飛び火。多くの大名が東軍・西軍に与していたため、地方においても東西に属した大名同士の戦いが続きました。
幕府にはそれを抑える力が無いため、力と力が衝突した世の中に突入します。大名同士の後継者争い、その家臣が実権を握る下剋上が当たり前に。その中には、織田氏のような小さな大名や毛利氏など国人と呼ばれる小領主が大きくなったりする例が起きました。
さらには全く武家とは無名だった存在(北条早雲、斎藤道三ら)も大名家に入り込んでそこで出世して最終的に家を乗っ取るような形で、新たな戦国大名としてのし上がっていく例もあります。
それでも室町幕府は形の上では残り、権威を使って官位などを与え続けています。この戦国の時代は100年余り続き、最終的に織田信長の台頭により終息方向に。豊臣秀吉の時代を経て最終的に徳川家康が終止符を打ちます。そして江戸の平和な時代が始まりました。
戦国時代ライターーSoyokazeの独り言
応仁の乱が戦国時代を引き起こすきっかけと言われます。室町幕府は3代義満の時代に南北朝が終わり一時は安定しました。しかし鎌倉時代の守護よりも力がある守護大名が全国にいて、パワーバランスが不安定。6代将軍義教が大名の赤松氏に暗殺される状態です。
そんな状況だったので、応仁の乱が起きずとも、いずれ戦国の様相を呈した可能性が高いです。そして100年以上続いた戦国時代も信長、秀吉、家康の手によって終結。参勤交代など大名の増長を防ぐ江戸幕府の方策が実を結び、250年間平和な時代が続きます。
参考文献
榊山潤『応仁の大乱』、河出書房新社
永島福太郎『応仁の乱』、至文堂
永原慶二『下克上の時代』、中公文庫
笠原一男『室町幕府と応仁の乱』、木耳社
小川信『山名宗全と細川勝元』、人物往来社
ドナルド・キーン『足利義政 - 日本美の発見』、中央公論新社
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