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この記事の目次
- 1ページ目
- 応仁の乱とは?
- 応仁の乱の原因は?
- 応仁の乱はなんであんなに長引いた?
- 応仁の乱の勝者は結局、東軍?西軍?
- 2ページ目
- バトルオブ応仁の乱!(応仁の乱雑学まとめ)
- 東軍と西軍にはどんな大名がいたの?
- 京都は焼け野原、どの辺が焼けた?
- 応仁の乱で特に活躍した守護大名は?
- 応仁の乱の戦い方は戦国時代と違う?
- 3ページ目
- 応仁の乱は日野富子のせいなの?
- 応仁の乱を煽った連中(応仁の乱を引き起こした人紹介)
- 斯波氏・畠山氏の家督相続
- 細川氏・山名氏の勢力争い
- 足利義視vs足利義尚の叔父甥対決
- 4ページ目
- アフター応仁の乱(応仁の乱後の歴史)
- 将軍や天皇が戦の大義名分に利用される
- 各地で東西勢力が入り混じり、下極上が始まる
- 貴族や寺社ピエン!荘園が実力で分捕られる
- 戦乱でパオン!土一揆、一向一揆の勃発
- 応仁の乱の後、戦国時代へ突入
- 戦国時代ライターーSoyokazeの独り言
応仁の乱は日野富子のせいなの?
義政の妻・日野富子は悪妻とか恐妻家として伝わる人物。優柔不断で、政治への意欲を失いつつある夫に代わって、政治を動かそうとします。そういう意味では応仁の乱の原因を作ったひとりであることは間違いないでしょう。
たとえば実家の日野家より正室として義政の元に向かったときに、義政には側室がいました。そして第一子が生まれましたがその日のうちに死亡。それを富子は義政の乳母で実権を握る、今参局が呪ったと言いがかりをつけて失脚させます。
以降しばらく子に恵まれません。そのため夫・義政が義視を後継者として還俗させるも、納得できず、ついに男子・義尚を出産します。そして富子はこの子供に将軍職を付けようと画策。応仁の乱の直前では西軍になる山名宗全に近づきました。
応仁の乱が終わると、将軍職は富子の意向通り、義尚が継ぐことになります。しかし政治に関心のない義政とは徐々に距離ができ、最後は別居状態になります。結局、9代将軍義尚から11代義澄の時代まで、幕府の実権を握りつづけました。
また富子は応仁の乱によって困窮する東西の大名に対して金銭の貸付たり、米の投機を仕掛けたりして、金儲けをおこなっています。一時は現在の60億円ほどの資産を手に入れたとされています。
応仁の乱を煽った連中(応仁の乱を引き起こした人紹介)
ここで日野富子以外に応仁の乱をあおる結果になった人物たちをひとりずつ紹介してきます、将軍家の争いのほか有力大名たちの後継者争いや勢力争いが絡んだ戦いの要因は、あまりにも複雑に入り組んでいます。
斯波氏・畠山氏の家督相続
応仁の乱は、将軍家の後継者争い、義政の弟・義視と子・義尚だけでなく、他の有力大名家の後継者争いまで絡んだために、余計に長引きました。そのひとつが、畠山氏の後継者争いです。
平安時代からの名家である畠山氏は、細川氏同様幕府を支える管領職に就いていました。応仁の乱がおこる直前の状況では、当主の持国が、最初弟の持富を後継者にしようと考えていました。
ところが途中から子の義就を後継者にしようとします。それに反発した勢力が、持富の子、政長を擁立し、いとこ同士が争うことに発展しました。それを利用したのが山名宗全と細川勝元です。
宗全は義就と近づき、勝元は政長のバックに着きます。そして1466年12月に管領職を巡ってふたりは衝突。御霊合戦と呼ばれる戦いが始まります。この戦いが、応仁の乱の導火線の役目を果たすことになり、以降長い戦いが続きました。
また細川・畠山と同格の力を持つ斯波氏に於いてもこのときに後継者争いが発生。山名氏出身の母を持つ義廉と勝元を頼った義敏との対立です。義廉と義敏は戦いを繰り返し、結果的に交互に数回当主を務めるという事態になりました。
細川氏・山名氏の勢力争い
東軍側の主力だった細川氏は、鎌倉時代から存在する武家で、足利家の分家筋。元々は愛知県岡崎市細川町に住んでいたことからこの苗字を持ちます。細川氏が歴史上に登場するのは室町時代からです。
足利尊氏に従って活躍したため畿内と四国を中心に、8カ国の守護職を束ねる大大名となりました。そして細川宗家(京兆家)は、室町幕府では将軍に次ぐ地位とされる管領を代々務めます。
細川氏最盛期の当主・勝元の時代に応仁の乱が勃発します。東軍側として足利将軍家を後ろ盾に戦い、途中で宗全側にあった天皇・上皇の奪還に成功。しかし乱が長引き、和平交渉旨く行かないまま日々が過ぎ、宗全の死を追うように勝元も死亡。
後継者の政元により応仁の乱を終結させますが、争いは絶えることなく、やがて細川家も分裂します。最終的に分家が戦国時代を生き抜き、江戸時代には熊本の大名。さらにその子孫の護熙が、平成時代に内閣総理大臣を務めることになります。
一方西軍の中心だった山名氏は、元々は新田氏の一門です。鎌倉時代からその名前が登場し、上州高崎の山名郡を支配していました。(山名氏の名の由来)南北朝時代になると、足利尊氏の元で活躍し、山陰の地を与えられ、北朝側の武将として勢力を拡大しました。
室町時代の一時期は勢力がそがれましたが、やがて再興。山名宗全(持豊)は、6代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐を討伐します。そのことで、恩賞をもらい、数か国の守護職を務める有力大名となりました。
新参者の勢力である山名氏は、幕府の重臣だった細川勝元と対立。将軍家をはじめとする後継者争を利用してついに、応仁の乱の火ぶたが切られます。戦いが長期化したので和平を模索しようとします。しかし乱の終焉を見ることなく1473年3月に70歳で病死。
宗全の後継者の政豊が応仁の乱の和睦を行い、乱は終焉します。しかし全国的な戦は収まること無く、その子孫は戦国大名、江戸時代は旗本として生き残りました。
足利義視vs足利義尚の叔父甥対決
足利義政は妻の日野富子との間に出来た最初の子供も早く亡くなったこともあり、いつでも引退できるようにと、後継者を指名します。その人物は実弟で、出家していましたが、還俗させ義視と名乗ります。
ところが富子が男子を出産。のちの義尚が誕生します。これは義政が後継者づくりを急いだために起きた事態。義政が優柔不断と言われたこのことが、応仁の乱につながる大きな要因のひとつです。結局義政は将軍の立場のまま、趣味を優先します。
応仁の乱の最中には、天皇家と同居して宴会などを行っていました。その後、乱の首謀者である宗全・勝元が死んだのを見届けるように、義尚に将軍を譲り、完全に文化人として過ごします。そして有名な銀閣寺を建てました。(銀閣寺の完成を待たずに死去)
また義政によって還俗させられた義視ですが、義尚誕生後は、彼が成人するまでのつなぎという立場との意識がありました。そのため当初は義政・義尚との関係も友好的。一時的に将軍になるつもり。乱の始まった当初、東軍として攻撃をしたのは義視でした。
ところが義視は西軍の山名側に取り込まれてしまい、西幕府の将軍として義政・義尚らと真っ向対立することに。西の将軍として東軍側を攻撃します。乱の終了後は美濃に亡命。後に復権。義尚に子が無かったので彼の子・義材が幕府の将軍後継者になります。
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