京都炎上!戦国時代を生み出した「応仁の乱」をわかりやすく解説

2020年9月24日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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合戦シーン(戦国時代の戦)

 

戦国時代を生み出すきっかけと言われている、応仁の乱(おうにんのらん
)
を取り上げます。11年もの間、京都の町を炎上させ、戦いの場所としたこの乱は、なぜ行われたのか?そしてどうしてこんなに長く「だらだら」続く結果となったのか、その原因と影響について検証します。

 

応仁の乱とは?

細川勝元

 

応仁の乱とは、室町時代の中期に起きた内乱です。その長さは1467(応仁元)年から1478(文明9)年まで11年以上続き渡り、「だらだら」と長引いたためにその後の戦国時代突入のきっかけとなった事件です。

 

山名宗全

 

細川勝元(ほそかわかつもと)を中心とした東軍が16万の軍勢、山名宗全(やまなそうぜん)を中心とした西軍が11万の軍勢で、両者が京都で激突。全国の守護大名を巻き込んだ長い戦いになりました。

 

応仁の乱の原因は?

 

応仁の乱の原因はいつくかあり、主に次の理由が考えられます。

 

1、途中から政治に興味を無くし、早々と弟を後継者にした将軍・足利義政(あしかが よしまさ
)
の性格

2、将軍の妻で、側室を追放し実子を利用して政治権力を握ろうとした日野富子(ひの とみこ
)
の野望

3、後継者争いを口実に京都で守護大名同士が激突

4、同時に起きていた畠山・斯波氏の家督争い

 

応仁の乱はなんであんなに長引いた?

 

応仁の乱は全国の守護大名を巻き込んだ戦いになりました。ところが長引いたのにはいろんな事情が重なりました。たとえば義政の弟・足利義視(あしかがよしみ)は、当初東軍側として戦いました。ところが西軍側に取り込まれてしまい、西の将軍として戦います。

 

また周防の国から1万の大軍を率いた大内正弘(おおうちまさひろ)が戦いに加わるなど、次々と東西に新しい大名が軍に参加したために、戦いの終結の見通しが立たなくなりました。

 

さらに将軍家のほか、有力大名の畠山・斯波氏の後継者争いも絡んでいました。こう着状態だったこの戦いも、最終的に和睦が行われて乱は終結しますが、そこに至るまで11年の長きにわたり京の都は戦乱状態となってしまったのです。

 

応仁の乱の勝者は結局、東軍?西軍?

 

表向きの終結ですが、西軍総大将の宗全、東軍総大将の勝元のふたりが死亡したことを契機に和睦が行われます。表向きの理由として西軍の解体という形でようやく乱は終結しました。つまり東軍が勝利という形です。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

しかしあくまで表向きの理由です。この戦いでは、後の関ヶ原の戦いのように東軍・西軍のどちらかが明確に勝利したわけではありません。勝利者は不在のまま、11年の長きにわたり京の都は荒れ果て、足利将軍家の権力が大幅に低下。戦国時代へ突入しました。

バトルオブ応仁の乱!(応仁の乱雑学まとめ)

 

ここで長引いただけでなく、非常にややこしい戦いだった応仁の乱についてさまざま雑学を集めて見ました。

 

東軍と西軍にはどんな大名がいたの?

 

応仁の乱の東西勢力図ですが、明確なのは東軍に義政ら足利将軍家と細川、西軍に山名と大内、それに西幕府の将軍足利義視という構図です。それ以外にも明確な東軍・西軍というのはわずかにいますが、そのほとんどは同族の争いでした。

 

足利将軍家をはじめ、管領の畠山、斯波は東西どちらにもいて、それぞれが後継者争いをするために戦いに加わっています。それ以外にも、伊勢、吉良、小早川、武田、六角、京極、姉小路などの各大名。いずれも東西にそれぞれいて戦っています。

 

京都は焼け野原、どの辺が焼けた?

 

応仁の乱で実際に焼けてしまったところを確認します。11年間の戦乱で「焼の野原」となった京の都ですが、いわゆる先の大戦で行われた大空襲で起きたレベルにまで焼けたわけではありません。(但し京都は空襲が無かったので、他の都市での焼の野原との比較です)

 

戦火を受けた場所は、都でも「上京」と言われているエリアに集中しています。これは現在の三条通りから北側のエリア。逆にそれよりも南側の「下京」でも戦火を受けているところはありますが、ごくわずかに点在しているだけです。

 

上京には、天皇の住む内裏、足利将軍家の住む花の御所がありました。このあたりは広範囲で焼けたという記録があります。現在でも存在する下鴨神社、北野天満宮、相国寺、上御霊神社といったところでは、乱による戦火を受けています。

 

また建物が焼かれたのは、乱が始まった応仁元年の頃には300軒近くの建物が焼失しましたが、1年後には50軒程度、以降乱が終わるまでの間は、せいぜい毎年十数軒に過ぎない戦い。こう着状態が長かったことがうかがえます。

 

応仁の乱で特に活躍した守護大名は?

 

応仁の乱で活躍した大名で上げられるのは、やはり東西の総大将となります。東軍総大将細川勝元は、将軍に次ぐ管領という立場にいました。そして幕府・将軍義政側という立場で、西軍に対峙して東軍を指揮して自らの死まで戦い続けました。

 

それに対して西軍の山名宗全は数か国の守護を任された大大名です。将軍家の後継者争いを利用して西軍を率いて東軍と激突。乱がおこったときでの、宗全の年齢はすでに60を超えていました。しかし総大将して奮戦しています。

 

当初は後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)を西軍側に確保して擁立。さらに義政の弟である義視を「西の将軍」として担ぎ上げます。天皇が東軍に奪還されると、南朝の末裔という「西陣南帝(にしじん なんてい)」を擁立して戦い続けました。

 

応仁の乱の戦い方は戦国時代と違う?

 

応仁の乱とこの戦いがきっかけで行われる戦国時代との戦い方ですが、これは戦国時代の時期によって違いがあります。初期のころについては、応仁の乱と戦国時代の戦いに大きな違いはありません。

 

従来では応仁の乱以降を戦国時代ととらえていますが、最近の研究では、応仁の乱よりも25年ほど後に行われた、明応の政変を持って戦国時代の始まりという説が広がりつつあります。ちなみにこの政変により、足利将軍家が義稙流と義澄流に分裂しました。

 

そのようないきさつがあり、中盤までは主に大名同士の後継者争いや、その争いに乗じてのし上がった家臣による下剋上のような戦いが中心でした。やがて各戦国大名たちが、内部の争いに勝利してから新しい戦い方に代ります。

 

それは他国への侵攻です。戦国大名同士が領地をかけて争う戦いが中期以降に行われ、やがてその戦いに勝利した有力大名が各地に点在。その中でも、京都に近い尾張・美濃を支配下に収めていた織田信長が一歩抜きに出て、天下統一への道が始まります。

応仁の乱は日野富子のせいなの?

 

義政の妻・日野富子は悪妻とか恐妻家として伝わる人物。優柔不断で、政治への意欲を失いつつある夫に代わって、政治を動かそうとします。そういう意味では応仁の乱の原因を作ったひとりであることは間違いないでしょう。

 

たとえば実家の日野家より正室として義政の元に向かったときに、義政には側室がいました。そして第一子が生まれましたがその日のうちに死亡。それを富子は義政の乳母で実権を握る、今参局(いままいりのつぼね)が呪ったと言いがかりをつけて失脚させます。

 

以降しばらく子に恵まれません。そのため夫・義政が義視を後継者として還俗させるも、納得できず、ついに男子・義尚を出産します。そして富子はこの子供に将軍職を付けようと画策。応仁の乱の直前では西軍になる山名宗全に近づきました。

 

応仁の乱が終わると、将軍職は富子の意向通り、義尚が継ぐことになります。しかし政治に関心のない義政とは徐々に距離ができ、最後は別居状態になります。結局、9代将軍義尚から11代義澄(よしずみ)の時代まで、幕府の実権を握りつづけました。

 

また富子は応仁の乱によって困窮する東西の大名に対して金銭の貸付たり、米の投機を仕掛けたりして、金儲けをおこなっています。一時は現在の60億円ほどの資産を手に入れたとされています。

 

応仁の乱を煽った連中(応仁の乱を引き起こした人紹介)

 

ここで日野富子以外に応仁の乱をあおる結果になった人物たちをひとりずつ紹介してきます、将軍家の争いのほか有力大名たちの後継者争いや勢力争いが絡んだ戦いの要因は、あまりにも複雑に入り組んでいます。

 

斯波氏・畠山氏の家督相続

 

応仁の乱は、将軍家の後継者争い、義政の弟・義視と子・義尚だけでなく、他の有力大名家の後継者争いまで絡んだために、余計に長引きました。そのひとつが、畠山(はたけやま)氏の後継者争いです。

 

平安時代からの名家である畠山氏は、細川氏同様幕府を支える管領職に就いていました。応仁の乱がおこる直前の状況では、当主の持国(もちくに)が、最初弟の持富(もちとみ)を後継者にしようと考えていました。

 

ところが途中から子の義就(よしひろ)を後継者にしようとします。それに反発した勢力が、持富の子、政長(まさなが)を擁立し、いとこ同士が争うことに発展しました。それを利用したのが山名宗全と細川勝元です。

 

宗全は義就と近づき、勝元は政長のバックに着きます。そして1466年12月に管領職を巡ってふたりは衝突。御霊合戦(ごりょうがっせん)と呼ばれる戦いが始まります。この戦いが、応仁の乱の導火線の役目を果たすことになり、以降長い戦いが続きました。

 

また細川・畠山と同格の力を持つ斯波(しば)氏に於いてもこのときに後継者争いが発生。山名氏出身の母を持つ義廉(よしかど)と勝元を頼った義敏(よしとし)との対立です。義廉と義敏は戦いを繰り返し、結果的に交互に数回当主を務めるという事態になりました。

 

細川氏・山名氏の勢力争い

 

東軍側の主力だった細川氏は、鎌倉時代から存在する武家で、足利家の分家筋。元々は愛知県岡崎市細川町に住んでいたことからこの苗字を持ちます。細川氏が歴史上に登場するのは室町時代からです。

 

足利尊氏に従って活躍したため畿内と四国を中心に、8カ国の守護職を束ねる大大名となりました。そして細川宗家(京兆家)は、室町幕府では将軍に次ぐ地位とされる管領(かんれい)を代々務めます。

 

細川氏最盛期の当主・勝元の時代に応仁の乱が勃発します。東軍側として足利将軍家を後ろ盾に戦い、途中で宗全側にあった天皇・上皇の奪還に成功。しかし乱が長引き、和平交渉旨く行かないまま日々が過ぎ、宗全の死を追うように勝元も死亡。

 

後継者の政元により応仁の乱を終結させますが、争いは絶えることなく、やがて細川家も分裂します。最終的に分家が戦国時代を生き抜き、江戸時代には熊本の大名。さらにその子孫の護熙(もりひろ)が、平成時代に内閣総理大臣を務めることになります。

 

一方西軍の中心だった山名氏は、元々は新田氏の一門です。鎌倉時代からその名前が登場し、上州高崎の山名郡を支配していました。(山名氏の名の由来)南北朝時代になると、足利尊氏の元で活躍し、山陰の地を与えられ、北朝側の武将として勢力を拡大しました。

 

室町時代の一時期は勢力がそがれましたが、やがて再興。山名宗全(持豊)は、6代将軍足利義教(よしのり)を暗殺した赤松満祐(あかまつみつすけ)を討伐します。そのことで、恩賞をもらい、数か国の守護職を務める有力大名となりました。

 

新参者の勢力である山名氏は、幕府の重臣だった細川勝元と対立。将軍家をはじめとする後継者争を利用してついに、応仁の乱の火ぶたが切られます。戦いが長期化したので和平を模索しようとします。しかし乱の終焉を見ることなく1473年3月に70歳で病死。

 

宗全の後継者の政豊が応仁の乱の和睦を行い、乱は終焉します。しかし全国的な戦は収まること無く、その子孫は戦国大名、江戸時代は旗本として生き残りました。

 

足利義視vs足利義尚の叔父甥対決

 

足利義政は妻の日野富子との間に出来た最初の子供も早く亡くなったこともあり、いつでも引退できるようにと、後継者を指名します。その人物は実弟で、出家していましたが、還俗させ義視(よしみ)と名乗ります。

 

ところが富子が男子を出産。のちの義尚(よしひさ)が誕生します。これは義政が後継者づくりを急いだために起きた事態。義政が優柔不断と言われたこのことが、応仁の乱につながる大きな要因のひとつです。結局義政は将軍の立場のまま、趣味を優先します。

 

応仁の乱の最中には、天皇家と同居して宴会などを行っていました。その後、乱の首謀者である宗全・勝元が死んだのを見届けるように、義尚に将軍を譲り、完全に文化人として過ごします。そして有名な銀閣寺を建てました。(銀閣寺の完成を待たずに死去)

 

また義政によって還俗させられた義視ですが、義尚誕生後は、彼が成人するまでのつなぎという立場との意識がありました。そのため当初は義政・義尚との関係も友好的。一時的に将軍になるつもり。乱の始まった当初、東軍として攻撃をしたのは義視でした。

 

ところが義視は西軍の山名側に取り込まれてしまい、西幕府の将軍として義政・義尚らと真っ向対立することに。西の将軍として東軍側を攻撃します。乱の終了後は美濃に亡命。後に復権。義尚に子が無かったので彼の子・義材が幕府の将軍後継者になります。

アフター応仁の乱(応仁の乱後の歴史)

 

最後に応仁の乱以降の歴史、乱による影響についてみて行きます。

 

将軍や天皇が戦の大義名分に利用される

 

応仁の乱そのものは、将軍の後継者争いという様相でしたが、これ以降将軍の権力は完全に失墜します。しかし権威だけは保たれておりました。以降の戦いも力ある大名に担がれる形で将軍を立て、敵と戦うという構図が続きます。

 

これは日本の歴史上でも天皇を戦いの大義名分として戦うという風習があり、あくまで天皇のいる朝廷に刃向う行為は「朝敵」となってしまうからです。そのため皇族を新たな天皇として利用することがあります。

 

応仁の乱の前の南北朝時代は、南北に存在した天皇を双方についた武将たちが利用しました。応仁の乱から戦国の時代には天皇よりも足利将軍家を利用するパターンが多く、天皇はさらに上の存在という位置づけでした。

 

将軍は、有力大名なくては何もできないことから、お礼としてその大名の地位を上げるために存在。大名もその権威を利用して自らの地位を上げるために将軍を利用しました。

 

天下布武を唱える織田信長

 

それは9代将軍以降、常に有力大名の大義名分として存在し、最後は15代将軍義昭を利用した織田信長まで続きます。信長が義昭を追放し幕府が滅びますが、天皇の大義名分としての利用は、時代が下がった幕末でさえも、薩長の雄藩が利用しています。

 

各地で東西勢力が入り混じり、下極上が始まる

 

応仁の乱そのものは、京のある山城の国で行われていた合戦。11年もの長い間対立して戦いを繰り広げたため、幕府の政治的な空白が続きます。これは全国の大名で頻繁に行われていた後継者争いの決着にも影響を及ぼしました。

 

それまでは幕府の意向で決着がつくことが多かったのです。しかし幕府が完全に機能不全に陥ってしまった応仁の乱。その結果大名同士が勝手に戦い始めます。武力のあるものが勝利し、力で後継者が決まる時代に。さらにその大名の地位を狙う家臣の存在も現れます。

 

応仁の乱で将軍の後継者争いを利用して対立する大名同様に、大名の当主争いも家臣同士の争いに発展。大名よりも力を持った家臣が実権を握り、ライバルを力でねじ伏せる。それでのし上がっても、またさらに下のものが力を持つとその主を支配。

 

あるいは武力で殺害してのし上がっていきます。いわゆる「下極上」の世界に突入しました。そして応仁の乱は11年で終結しますが、すでに幕府の権力は完全に失墜。名ばかりの存在となり、表向き権威あるだけの存在になりました。

 

貴族や寺社ピエン!荘園が実力で分捕られる

荘園に逃げ込む鉄の職工達

 

日本では、奈良時代から「荘園(しょうえん)」というものがあります。これは全国の土地が中央にいる権力者によって支配されていた構図です。皇族や貴族・公家をはじめ、次第に台頭する武家、さらに寺社も独自に荘園を有しており、そこに住む領民から年貢を取っていました。

 

やがて鎌倉時代になると、幕府が全国に設置した守護の下に置かれた地頭が荘園を管理するようになります。そして室町時代になると守護の力が大きくなり、地頭が消滅。守護大名が直接領地を支配するようになりました。

 

そしてそれまでまばらに住居があった民衆が団結するようになり、村落が形成。また武装するようになります。そして応仁の乱から戦国時代に突入すると、荘園という存在が名ばかりとなり、そのときに力を持っている勢力が、そのまま支配するという状況になります。

 

中国大返し(豊臣秀吉)

 

土佐一条氏のように公家が直々に荘園のある現地に赴いて、そのまま戦国大名に変貌した例もあります。また大名空白地では、武装化した寺社、あるいは民衆が自治を行う地域も登場。そんな荘園は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の太閤検地(たいこうけんち
)
にて名実とともに消滅しました。

 

戦乱でパオン!土一揆、一向一揆の勃発

一向一揆(農民)

 

応仁の乱の影響は、将軍家や管領家、地方の大名だけではありません。その下にいる多くの一般人の生活に影響を与えました。当時は普段農作業をしながら、戦になると領主である大名の兵として戦争に向かいました。そこで命を落とす例も後を絶ちません。

 

また頻繁に領主が変わる時期でもあり、領主が変わるたびに、領地内の方針や収める年貢の量なども変わります。一般の民衆の生活も混乱し、我慢の限界に達してきました。そして行われたのが土一揆(つちいっき)です。一般の農民たちは団結するようになりました。

 

支配者たる領主に、政治的な要求「徳政」を求めます。しかし領主が受け付けないと、反乱(一揆)を起こしました。また寺社、特に浄土真宗(一向宗)の寺院は、この民衆を利用して、戦国大名のように武装。同様に反乱を起こして大名と戦います。

 

一向一揆

 

これは一向一揆(いっこういっき)と呼ばれるもの。戦国時代を通じて大名たちを悩ませた存在です。戦国時代には農民も独自に武装化。大名の兵隊として参戦したり、自衛のために戦う能力を備えたりしていました。このことを無くしたのが、豊臣秀吉の刀狩りです。

 

応仁の乱の後、戦国時代へ突入

 

将軍家や有力大名の後継者争いに端を発した応仁の乱では、当初京都での衝突が中心でした。やがて地方に飛び火。多くの大名が東軍・西軍に与していたため、地方においても東西に属した大名同士の戦いが続きました。

 

幕府にはそれを抑える力が無いため、力と力が衝突した世の中に突入します。大名同士の後継者争い、その家臣が実権を握る下剋上が当たり前に。その中には、織田氏のような小さな大名や毛利氏など国人と呼ばれる小領主が大きくなったりする例が起きました。

 

悪い顔をする斎藤道三

 

さらには全く武家とは無名だった存在(北条早雲(ほうじょう そううん
)
、斎藤道三(さいとう どうさん
)
ら)も大名家に入り込んでそこで出世して最終的に家を乗っ取るような形で、新たな戦国大名としてのし上がっていく例もあります。

 

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

それでも室町幕府は形の上では残り、権威を使って官位などを与え続けています。この戦国の時代は100年余り続き、最終的に織田信長(おだ のぶなが
)
の台頭により終息方向に。豊臣秀吉の時代を経て最終的に徳川家康(とくがわ いえやす
)
が終止符を打ちます。そして江戸の平和な時代が始まりました。

 

戦国時代ライターーSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

応仁の乱が戦国時代を引き起こすきっかけと言われます。室町幕府は3代義満の時代に南北朝が終わり一時は安定しました。しかし鎌倉時代の守護よりも力がある守護大名が全国にいて、パワーバランスが不安定。6代将軍義教が大名の赤松氏に暗殺される状態です。

 

そんな状況だったので、応仁の乱が起きずとも、いずれ戦国の様相を呈した可能性が高いです。そして100年以上続いた戦国時代も信長、秀吉、家康の手によって終結。参勤交代など大名の増長を防ぐ江戸幕府の方策が実を結び、250年間平和な時代が続きます。

 

参考文献

榊山潤『応仁の大乱』、河出書房新社

永島福太郎『応仁の乱』、至文堂

永原慶二『下克上の時代』、中公文庫

笠原一男『室町幕府と応仁の乱』、木耳社

小川信『山名宗全と細川勝元』、人物往来社

ドナルド・キーン『足利義政 - 日本美の発見』、中央公論新社

 

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Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

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