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曹操の目は欺けない
ですが中国では「曹操の話をすれば曹操が現れる」という諺があるように、帰路には曹操が待機していました。ここで穆順は捕まってしまいます……しかし、何とか誤魔化した穆順、釈放されることになりました。が、ここで曹操は穆順が慌てて冠を前後逆に被ったことを怪しみ、穆順が髪に隠した密書を発見。
穆順はその後、誰の差し金であるか言うように酷い拷問を受けます。しかしそれでも白状せず、穆順は鉄の忠義心で耐え続けるも……計画は露天、伏完、伏皇后、その一族と共に穆順の一族も処刑されるのでした。
(こころが)きれいな宦官
と、いうように穆順はその当時としてはとても忠義心に溢れた、清廉な人物であり、宦官というイメージを覆すような存在として出てきます。とは言え宦官が全て私利私欲を満たすための存在であったわけではありません。
例えば唐の玄宗に仕えた宦官である高力士は慎み深い性格で、忠義心と理知に溢れた人物として有名ですね。高力士もまた、皇帝のために多くの仕事を片付けまくっていた宦官です。
このように宦官と言っても一枚岩ではない……けれど、どうして宦官と言えば悪いイメージがあるのでしょうか?(十常侍とかはこの際置いておいて下さい)
宦官という存在
ここで出てくるのが儒です。儒学では「体は両親からの授かりもの」です。夏侯惇がその目玉を食べた逸話のように「親から授かった体を傷つける」ことは親不孝なのです。
しかも宦官は「子孫を残せない」……「親まで継いできた家をこれ以上残せなくなる」ことも相まって、当時としてはかなりの嫌悪、侮蔑を受ける存在でもあったと思われます。このため宦官というと悪役、というイメージが付けられたのだと思いますね。この辺りはまたいずれご説明しましょう。
アンチテーゼか?
とは言え、宦官とは言え有能、忠義心に溢れた人物は多くいたとされています。しかしそんな彼らでも「宦官」というくくりにされ、もしかしたら正当な評価はされないまま、歴史に消えていったのかもしれません。個人的には穆順はそういう存在の象徴、もしくは宦官という存在へのアンチテーゼだったのでは……?と考えます。
三国志演義は羅貫中先生の作品です。しかし羅貫中についてははっきりしたことは分からず、この人物がどういった人物か、もしかしたら共同ペンネームだったんじゃないかとも言われています。
もし羅貫中が共同ペンネームだったら……もしかして宦官の家系の人物がいて、そういった人たちへのアンチテーゼとして穆順は出てきたのかな……という、いつもの妄想でした。
三国志ライター センのひとりごと
三国志演義には、前述したようにたくさんの架空武将たちが出てきます。しかしその中には創作とは言い切れないような活躍をする者もいれば、何のために出てきたのか分からないような人物もおり、正に玉石混交と言った所。そんな架空武将たち、もっともっと注目していきたいですね。
参考文献:三国志演義
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