信長相手に10年!一向一揆の黒幕・本願寺の強さを徹底解説

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一向一揆の黒幕・本願寺の強さ(1P目)




一向一揆を率いた武闘派坊主 no.4 下間頼照(しもまらいしょう)

 

下間頼照(しもつまらいしょう)は、代々親鸞の時代からの弟子で本願寺に仕えた下間家の武将です。朝倉氏滅亡後、越前の一向一揆の総大将として信長勢を攻撃。越前を実効支配します。しかし2年後に侵攻した信長軍に敗れ去り、対立する浄土真宗高田派の門徒に首を討たれました。




一向一揆を率いた武闘派坊主 no.5 下間頼旦(しもまらいたん)

 

下間頼旦(しもつまらいたん)は、信長と戦うことになった顕如の檄文をもとに伊勢に派遣された指導者です。長嶋一向一揆を起こし、信長の弟・信興を敗死させてこの地域を支配下に置きます。

 

信長は5万もの大軍を率いて反撃しますが、逆に打撃を与え、撤退する際にしんがりを務めた氏家直元(うじいえ なおもと)を殺害するなどの活躍を行いました。




一向一揆を率いた武闘派坊主 no.6 杉浦玄任(すぎうら げんにん )

 

杉浦 玄任(すぎうら げんにん)は本願寺坊官で、加賀一向一揆の大将をつとめました。顕如が石山本願寺を明け渡したときに反発。さらに武田勝頼の依頼で、一揆勢力を持って上杉謙信の進出を阻止します。さらに加賀に攻めてきた謙信を撃退するなど本願寺の北陸勢力を保ちました。

 

一向一揆を率いた武闘派坊主 no.7 本多正信(ほんだまさのぶ)

徳川家康とマブタチな本多正信

 

本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の家臣で厳密には僧ではありません。しかし三河一向一揆では家康を裏切り一揆勢として戦います。家康が一揆を鎮圧後に逃亡。10年以上諸国を流浪後に家康に帰参します。

やがて徳川家の重臣となり江戸幕府成立前後に、「殿、本願寺が分裂しております。今が好機。あやつらを弱体化せねばまた反乱の恐れが」と、まだ勢力が保られていた本願寺が分裂しているタイミングで弱体化を家康に進言しました。そして本願寺東西分裂、弱体化を成功させています。

 

どうして巨万の富を築けた?

 

一向一揆を指導した本願寺。信長や全国の大名と戦うために、多数の武器を保持していました。そしてそれが実現したのは資金源を持っていたからです。それではなぜ本願寺一向宗はそんなに潤沢な資金源があったからですが、ひとつは本願寺の教えを信じていた信徒たちの寄付があります。

 

庶民はともかく、幕府や公家といった国家の上層部とのつながりがあり、それらの寄付があったのは事実です。しかし戦国時代はこれらの上層部の資金も乏しく、朝廷や将軍家は各地の実力ある大名に権威を与えることで資金提供を受けているほどの状況でした。

 

そんななか、一向宗が資金源としていたものが別にありました。それは寺内町。これは室町時代から寺院を中心に形成された自治集落です。戦乱が始まりだしたころには自分たちで街を守ろうと一か所に集まります。土塁と濠で街を囲み、防衛態勢を整えました。

 

そのため町内には信者だけでなく商工者が集まり、そこで経済活動が盛んになりました。その結果経済力を持つ寺内町が全国にできましたが、その中心には一向宗の寺院があります。つまり全国の寺内町から布施という形で、多額の資金が各寺院を経由し本願寺に流れました。

 

ちなみに現在も当時の寺内町の様子が見られる場所が、北陸や近畿地域でいくつか残っています。

 

 

一向一揆の死闘ベスト3

 

一向一揆で最も有名なのが信長と10年に及ぶ本願寺との戦いですが、それとは別に地域でも死闘が展開されました。その中でも次の一揆がベスト3といえます。

 

1位、加賀一向一揆(1488~1580)

一向一揆の力と存在を全国に知らしめたのが、加賀一向一揆です。この一揆では、当初加賀の守護大名である富樫政親(とがしまさちか)と激突。自らが守護につく際に協力的だった一向宗の力を知っていたので、統率を試みようとしましたが、逆に攻められて自害する事態となりました。

 

1488年に勃発したこの一揆は100年にわたり、領主が不在で本願寺が主導する農民の自治国家として存在しました。最後は1580(天正8)年の石山本願寺降伏まで続きました。しかし教如を中心とした急進派の抵抗はなおも続き、以降2年間白山麓一揆として最後まで抵抗しました。

 

2位、長嶋一向一揆(1570~1574)

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、信長と対立した石山本願寺の檄文に応じた伊勢の長嶋で起こった一揆です。1570年に勃発しこの地域を収めていた信長の弟・信興(のぶおき)を殺害します。

 

「信興が死んだだと!おのれ許さん!」と激怒した信長が大軍を長島に向かわせますが、3回軍勢を送り、鎮圧に4年かかりました。最後は10万近い大軍を用いてようやく信長が勝利しました。

 

 

3位、三河一向一揆(1563~1564)

 

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、家康の本拠地三河で行われた一揆です。西三河で繰り広げられており、家康の父・松平広忠の時代には、関連する3つの寺は不入りの特権を得ていました。その特権が侵害されたとして1563年に一揆が勃発します。

 

この戦いには家康家臣団のうち、本多正信ら数多くの武将が一揆側についてしまいます。家康は非常に苦慮しましたが半年後にようやく鎮圧。一揆側についた武将の多くは家康に許され帰参します。以降三河では1583年まで本願寺教団禁制の地となりました。

 

織田信長には敗れた理由

麒麟にまたがる織田信長

 

1570年から10年間行われた石山合戦。しかし最後は信長が勝利します。といっても武力制圧ではなくあくまで講和という形での終結で。本願寺は将軍義昭や大名と組んで信長と戦いました。信長は苦戦しながら、浅井朝倉など反信長派の大名を少しずつ滅ぼしていきます。

 

逃げ回る足利義昭

 

将軍義昭を追放し、西からの毛利水軍を撃破。さすがの本願寺も追い詰められていきます。しかし信長側も荒木村重の反乱など予定通りに進みません。そこで信長は朝廷を動かしました。正親町天皇(おうぎまちてんのう)は、信長と講和するよう、勅命を本願寺顕如と毛利氏に下します。

 

「まだ負けるわけにはいかぬ」と顕如は当初拒否しましたが、二回目の海戦で毛利水軍が織田水軍に敗れ、村重の乱も鎮圧されたため、本願寺側も和睦の検討を進めます。信長も同様に考えていたため、ついに両者は講和。その中には石山本願寺の退去が含まれていました。

 

顕如は宗主の地位を長男の教如(きょうにょ)に譲り退却。「父上は講和したが、私は納得できん。阿弥陀如来の仏法があれば、まだ逆賊信長と戦える!」と、教如はしばらく本願寺にとどまり抵抗を試みますが、最終的には本願寺を退却。信長軍が入ってようやく石山合戦が終結します。

 

なぜ東西に分裂した?

 

一向一揆は、石山合戦の終了によりなくなりました。しかし本願寺の勢力そのものは武力鎮圧されたわけではないので、残されます。顕如は合戦の終結時に教如に地位を譲りますが、顕如の意向とは別に教如が信長と抗戦したことから、親子の関係が悪化。本願寺は2派にわかれます。

 

顕如は教如とは朝廷の仲介により和解するものの、三男・准如(じゅんにょ)を後継者に指名します。顕如が死去した文禄元年は秀吉の時代。秀吉は顕如の遺志を尊重し、教如を隠居させて准如を後継者としました。しかし納得できない教如は活動をやめず、ここで本願寺が分裂状態になります。

 

教如は家康に近づきました。関ケ原の合戦が終わり家康の時代になると、「教如にこの地をあたえよう」と、家康から現在の東本願寺の建立が認められます。そして准如は西本願寺の住職となりました。これが本願寺が東西に分裂し現在もふたつの本願寺が京都にある理由となっております。

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

一向宗本願寺は、仏教の浄土真宗の一派でした。ところが戦国時代には、事実上の大名と同じで、信者を兵力にして信長や大名と戦いました。信者たちが形成した寺内町の資金源。また本願寺が室町幕府や公家達とのつながりを持ち彼らの意向に従うように一揆をけしかけることもありました。

 

信長包囲網が失敗した朝倉義景

 

そして織田信長と戦ったときも、将軍足利義昭や周辺の諸大名と信長包囲網を築いて信長を苦しめました。信長は将軍の追放や大名を滅ぼすなどしながら徐々に本願寺に味方するものをそぎ落として10年かけてようやく鎮圧。戦国時代の黒幕もなくなることで、一気に天下統一平和の世につながります。

 

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