三国時の時代は儒教思想がまだ強く、実はあちらこちらに見ることができます。その中の一つとされるのが「同姓婚」……この場合は同じ性別で結婚するのではなく、同じ「姓」で婚姻関係を結ぶこと、「性」ではなく「姓」、ここが重要です。
これには儒教思想が関係していると言われますが、今回はそこら辺についてかなり簡略化しつつお話したいと思います。
同姓婚~趙雲の場合~
まずは趙雲と関係する同姓婚についてから。
それは劉備が荊州を攻めた際に、桂陽太守の趙範が降伏した時のことです。この際に趙範は趙雲に取り入ろうとしたのか亡き兄の妻、未亡人である樊氏を薦めます。この際に趙雲は趙範とその兄は趙姓であることを理由に婚姻を拒否します。
趙雲はまだ忠義に生きたいとして婚姻を断った、趙範が自分に取り入ろうとしていたから断った、色々な要因も絡んでいるのですが、ここで断る理由として同姓婚が出てくるのが興味深いですね。
同姓婚~劉備の場合~
さて次に劉備のターン。
それは214年。劉備は蜀に侵攻、劉璋を降伏させますが、この時に呉氏を妻に娶る話が出てきます。というのもこの当時、劉備は孫権の妹、一般的に孫尚香と呼ばれる彼女を妻にしていたのですが、彼女が実家である呉に帰る際に劉備の嫡子である劉禅を連れていってしまいました。
これを奪還したのが趙雲ですが、この件もあってか群臣たちは劉備に新しい妻を娶って欲しかったようで……そこで出てきたのが後の穆皇后、呉氏です。この際に劉備は「劉備は同姓娶らず」と儒教の教えに反するからと一度は断ります。
これだけだとちょっと「?」となると思いますので、次にこの呉氏について説明しましょう。
呉氏こと穆皇后
さて呉氏は後に劉備配下になる呉懿の妹です。彼ら兄妹は幼い頃に父親を亡くしており、家族ぐるみの付き合いがあった劉焉が入植する際に一緒に同行しました。
そしてある時、人相見が呉氏を見て「この方は大変高貴な身分に上る女性だ」と言ったことで、劉焉は呉氏を自分の三男である劉瑁の妻に迎えたのです。が、劉瑁は早死にしてしまったため劉備の入蜀時には未亡人となっていました。
と、ここまで説明してきて「同姓婚って血縁関係だからダメなんじゃないの?」と思う人もいるかと思います。次にその疑問点について説明していきますね。
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