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この記事の目次
孫休の時代
そして258年。孫チンは殺害され、一党も殲滅、孫休の時代がやってきたのです。それ以後、孫休は科挙の原型を作ったり、地方の不正を正したり、干拓工事をやったけど失敗に終わったり、孫亮を反意有りとして位を落として追放したりしました。
この件で孫亮は自殺したとも、孫休が殺害させたとも言われていますが、二宮の変などで混乱していた呉を立て直すには不穏分子を潰しておかなければならないという実情もあったのでしょう。ともあれ孫休は皇帝として呉を立て直し、安定させ……息切れを起こし始めます。
孫休の時代(終わりの始まり)
呉を安定させた孫休は政治を張布と濮陽興に任せ、学問に傾倒するようになっていきます。学問は孫権も言っていたように皇帝であっても重要なことですが、それは皇帝として必要なことをした上でやらなければならないこと。そして孫休が学問に走っている間に、時代は激動を極めていました……そう、三国時代の終わりです。
蜀が滅亡し、三国のパワーバランスは一気に傾きました。
そして反乱が起こったりする中で孫休は病死、30歳でした。孫休は最期に遺言で太子を後継に望みますが、こんな時代に幼帝は望まれなかったのでしょう。
そして後継として選ばれたのが孫皓。彼こそが呉の最終工程……じゃなかった、皇帝となる色々と有名な人物です。
孫休は名君であったのか?
さて陳寿は孫休を「親しいけれど使えない人物を起用した、そのため本当に有能な人物を用いなかった」「孫亮を死なせた」これらのことで孫休を非難しています。ただし孫休は(後の孫皓の件もあってか)名君とされることもあります。
ただ個人的には手放しに名君とも言えない人物だと言わせて頂きます。孫チンを除いたこと、行政、立て直し、これらの点は評価できますが、途中から学問に傾倒しすぎたことはやはり皇帝という立場としては評価できない点です。何よりもこの間に三国のパワーバランスが崩れ、時代が大きく動いています。
乱れに乱れた国を立て直した、しかし立て直した後に、なぜか家臣に丸投げして何もしなくなった……これを個人的に「息切れ」と表現しましたが、そこが筆者的には孫休の限界だったのかなぁ……と、ちょっと辛口な評価をしてしまうのでした。
三国志ライター センのひとりごと
因みに孫休、ライバルを殺害する、即位の手助けをしてくれた家臣を殺害する、土木工事をやる……と、実は後の皇帝孫皓と共通点があります。孫皓は孫休によって復権させてもらえたと言っても良いので、そう考えるともしかしたら孫皓は孫休を皇帝の手本としていたのかもしれません。そう考えると……呉は、色々と詰んでいたのかな……なんて、後の時代だからこそ言えることですけどね。
参考文献:呉書三嗣主伝 妃嬪伝
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