激動の時代を生きた三代目皇帝・孫休は名君か?それとも暗君?

2020年10月22日


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孫休は名君?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫休の時代

宋代の公務員試験である科挙

 

そして258年。孫チンは殺害され、一党も殲滅、孫休の時代がやってきたのです。それ以後、孫休は科挙(かきょ
)
の原型を作ったり、地方の不正を正したり、干拓工事をやったけど失敗に終わったり、孫亮(そんりょう
)
を反意有りとして位を落として追放したりしました。

 

孫権の跡継ぎ9歳の孫亮

 

この件で孫亮は自殺したとも、孫休が殺害させたとも言われていますが、二宮の変などで混乱していた呉を立て直すには不穏分子を潰しておかなければならないという実情もあったのでしょう。ともあれ孫休は皇帝として呉を立て直し、安定させ……息切れを起こし始めます。

 

孫休の時代(終わりの始まり)

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

呉を安定させた孫休は政治を張布と濮陽興に任せ、学問に傾倒するようになっていきます。学問は孫権も言っていたように皇帝であっても重要なことですが、それは皇帝として必要なことをした上でやらなければならないこと。そして孫休が学問に走っている間に、時代は激動を極めていました……そう、三国時代の終わりです。

 

劉禅

 

蜀が滅亡し、三国のパワーバランスは一気に傾きました。

 

炎上する城b(モブ)

 

そして反乱が起こったりする中で孫休は病死、30歳でした。孫休は最期に遺言で太子を後継に望みますが、こんな時代に幼帝は望まれなかったのでしょう。

 

孫晧(孫皓)

 

そして後継として選ばれたのが孫皓(そんこう)。彼こそが呉の最終工程……じゃなかった、皇帝となる色々と有名な人物です。

 

孫休は名君であったのか?

陳寿(晋)

 

さて陳寿(ちんじゅ)は孫休を「親しいけれど使えない人物を起用した、そのため本当に有能な人物を用いなかった」「孫亮を死なせた」これらのことで孫休を非難しています。ただし孫休は(後の孫皓(そんこう)の件もあってか)名君とされることもあります。

 

三国志を楽しく語るライターセン様

 

ただ個人的には手放しに名君とも言えない人物だと言わせて頂きます。孫チンを除いたこと、行政、立て直し、これらの点は評価できますが、途中から学問に傾倒しすぎたことはやはり皇帝という立場としては評価できない点です。何よりもこの間に三国のパワーバランスが崩れ、時代が大きく動いています。

 

進軍する兵士a(モブ用)

 

乱れに乱れた国を立て直した、しかし立て直した後に、なぜか家臣に丸投げして何もしなくなった……これを個人的に「息切れ」と表現しましたが、そこが筆者的には孫休の限界だったのかなぁ……と、ちょっと辛口な評価をしてしまうのでした。

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

因みに孫休、ライバルを殺害する、即位の手助けをしてくれた家臣を殺害する、土木工事をやる……と、実は後の皇帝孫皓と共通点があります。孫皓は孫休によって復権させてもらえたと言っても良いので、そう考えるともしかしたら孫皓は孫休を皇帝の手本としていたのかもしれません。そう考えると……呉は、色々と詰んでいたのかな……なんて、後の時代だからこそ言えることですけどね。

 

参考文献:呉書三嗣主伝 妃嬪伝

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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