人間は、ある人物について強烈なイメージを与えられると、その後、その人物の詳細については、あまり考えなくなるようです。その典型的なケースがエジプト女王、クレオパトラでしょう。
ローマの英雄、カエサルやアントニウスと浮名を流した好色な絶世の美女というイメージが強すぎて、何のためにクレオパトラがそんな事をしたのか?この部分が吹き飛んでしまっているのです。
そこで、今回のまるっと世界史では、クレオパトラが何をした人かに焦点を絞って解説してみたいと思います。
この記事の目次
クレオパトラの行動の動機?
クレオパトラはエジプトの女王でありながら、ローマの将軍、カエサルやアントニウスと浮名を流した好色で魅惑的な美女として知られています。
しかし、彼女がローマの将軍達と関係を持ったのは、エチエチな美女だからではなく、そうしてローマの有力者の後ろ盾を得なければ、当時のエジプト・プトレマイオス朝が維持できなかったからなのです。
その辺りの経緯を見る為に彼女の出身母体であるプトレマイオス朝について、簡単に説明しましょう。
アレキサンダー大王の副官が起こした最後のエジプト王朝
古代エジプトは、紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が建国した第1王朝から紀元前30年にローマに併合されて消滅した第31王朝のプトレマイオス王朝まで、ざっと3000年の歴史があります。
ただ、それぞれの王朝は、全てエジプト人の一系で興されたわけではなく、紀元前11世紀頃からは、ペルシャ、ヌビア、アッシリアのような異民族の直接、間接の統治を受けます。
紀元前341年、アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に第30王朝、最期のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗北、以後ペルシャは10年間の圧政を敷きますが、紀元前332年、有名なアレキサンダー大王が率いるマケドニア軍がエジプトを占領します。
こうして、一時はアレクサンドロス帝国の一地方になるエジプトですが、大王の死後、その後継者を名乗るプトレマイオスが継承者争いに勝ち抜き、紀元前305年にプトレマイオス1世として即位、最期のエジプト王朝、プトレマイオス朝が開かれます。
プトレマイオスはギリシャ系であり、その子孫であるクレオパトラも実際はギリシャ系の顔立ちをしていました。
没落しローマに依存するプトレマイオス朝
プトレマイオス1世の王朝は、宮廷の重職に全てギリシャ人を配置した完全な外来政権でした。しかし、圧倒的に数が多いエジプト人の不満を逸らす為に、エジプト伝統の兄弟姉妹婚を取り入れるなどエジプト化を進めていきます。
プトレマイオス2世・3世の時代になると、首都アレキサンドリアは、政治、軍事、学問、芸術の全ての分野でもっとも充実した統治を行い地中海全域を支配下に置くなど、最盛期を迎えました。
ところが、プトレマイオス朝は、近親結婚から来る複雑な王位継承問題や、王家の芸術愛好の行き過ぎから来る政治の停滞、さらにセレウコス朝との戦いでエジプト兵士への依存が高まる等、問題が頻発するようになります。
プトレマイオス朝の後継者は、これらの問題に対処出来ず、浪費も止まらず財政は悪化、その穴埋めの為に、隣国のローマの資本家から莫大な借金を繰り返します。その頃、ローマも地中海に支配力を伸ばしていて、エジプトの穀倉地帯を狙い、エジプト政治に介入するようになりました。
プトレマイオス11世に至っては、ローマ貴族で大金持ちのスッラの支援を受け、義母で夫の死後に王位についていたクレオパトラ=ベレニケと結婚して共同の王位を得ますが、結婚後19日でベレニケを殺害して王座を独占しました。
この酷いやり方にアレクサンドリアの市民が激怒し、王を宮殿から引きずり出して殺害、プトレマイオスの直系の血筋が絶えたので、傍系から王に迎え入れられたのが、プトレマイオス12世で、彼こそがクレオパトラの父でした。
ここまででお分かりのように、クレオパトラが誕生した頃のプトレマイオス朝は、王が市民に殺害されてしまうほどに人心を得てなく、軍事も経済もガタガタで、ローマの実力者無くしては王位を全うできない状態だったのです。
クレオパトラが終始、ローマの実力者を見極めようとし、何人もの男性を虜にしたのは、プトレマイオス朝を守る為の彼女なりに体を張った処世術でした。
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