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この記事の目次
アントニウスとの真実の愛
やがてアントニウスとクレオパトラの間には、紀元前39年に双子の男女、紀元前36年にはもう1人の男子が誕生しました。最初は冷たい打算からの関係だったアントニウスとクレオパトラでしたが、子供に恵まれるにつれ、アントニウスは1人の男としてクレオパトラを愛し始めます。
紀元前36年、アントニウスは、盟友、オクタウィアヌスの姉のオクタヴィアと離婚しました。記録はありませんが、この時、正式にクレオパトラと結婚したとされる説もあります。
アントニウスはパルティア遠征やアルメニア王国を攻撃し、凱旋式をローマではなく、アレクサンドリアで挙行。凱旋で得た領地を、ローマに無断でクレオパトラや息子達に分け与えるなど単独行動が目立つようになります。さらには、自分の死後はエジプトでの埋葬を希望するなど、まるでプトレマイオス朝の王のような行動をするようになりました。
アントニウスの態度に、ローマ市民は「クレオパトラに骨抜きにされた軟弱な男」と失望。逆にオクタウィアヌスの人気が高まるようになります。これを捉えて、オクタウィアヌスはアントニウスと断交、エジプト女王クレオパトラに宣戦を布告します。
オクタウィアヌスに屈する事を拒否し自殺
紀元前31年、9月2日、アントニウス派とプトレマイオス朝の連合軍と、オクタウィアヌス率いるローマ軍がギリシャ西岸のアクティウムで激突。
しかし、この海戦はアントニウス派とプトレマイオス朝の方が軍船の数で上回っていたものの、海戦の初期にクレオパトラが離脱、すると、アントニウスも艦隊を置き去りにしてクレオパトラの後を追い離脱してしまいます。もちろん、指揮官を失った艦隊は、オクタウィアヌスの前に総崩れになり、勝敗は決してしまいました。
アントニウスは、「女の尻を追って戦場から逃げた」と敵軍に嘲笑されますが、構わずにクレオパトラを追いかけアレキサンドリアに向かいます。ところが、ここでクレオパトラが自殺したという誤報を聞き、絶望の余りに後を追い自殺しました。
それを聞いたクレオパトラは、アントニウスを連れてくるように部下に命じ、アントニウスは最後はクレオパトラの腕の中で息絶えたそうです。
アントニウスに出会う前なら、クレオパトラは生き残る為、勝利者のオクタウィアヌスに媚態を示したかも知れません。ですが、アントニウスの真実の愛に触れたクレオパトラはオクタウィアヌスに屈する事を拒否したのです。
そして、自殺を警戒してクレオパトラを軟禁したオクタウィアヌスの監視をかいくぐり、毒蛇に乳房、あるいは腕を咬ませて自殺します、39歳の激動の生涯でした。
彼女の死後、紀元前30年、オクタウィアヌスは共同統治者であったプトレマイウス15世カエサリオンを殺害、これによりプトレマイオス朝も滅亡します。
世界史ライターkawausoの独り言
クレオパトラは、弱体化したプトレマイオス朝を支える為にローマに接近し、小ポンペイウス、カエサル、アントニウスという時の実力者の愛人になり権力を維持しました。
そればかりでなく、王位を巡っては、弟や妹を容赦なく処分する非情さも見せています。しかし、アントニウスを愛人にした辺りから、本当の愛を知り最期には自分の死を信じて自殺したアントニウスに義理を立て、オクタウィアヌスに屈せず自殺を選びました。
愛憎と権謀術数に彩られた人生でしたが、アントニウスと過ごした人生最後の10年は、本当に幸せな日々だったのではないでしょうか?
参考:Wikipedia
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