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この記事の目次
長久手の戦い(ながくてのたたかい)とは?
秀吉にとって家康は、今まで戦ってきたどの相手よりも強敵でした。それを決定づけたのが長久手の戦いです。小牧では膠着状態になった戦いに決着をつけようと考えた、秀吉軍側の武将、池田恒興(いけだつねおき)は、秀吉に次の進言をします。
「家康の本拠地三河を攻めましょう。そうすれば小牧にいる家康めが混乱し、小牧から撤退するに違いありません」それを聞いた秀吉は許可します。こうして恒興を先頭に、2番手に森長可(もりながよし)、3番手堀秀政(ほりひでまさ)らが三河攻めに参戦します。
そして4番手には総大将として担ぎ上げられた、秀吉の甥の羽柴秀次が三河に向けて出陣。この戦いは秀次が秀吉の後継者としての威厳を見せるための戦いでもありました。秀次らは徳川軍のいないものと判断しての進軍です。ところが徳川軍は、ひそかに三河に軍勢を伏せていました。
そして白山林というところにいた最後方の秀次は、徳川方の奇襲を受けて撤退。さらにそれを知った秀政も、形勢が不利と判断し引き返します。その途中にあった桧ヶ根で徳川軍と激突しますが、秀政はそれを蹴散らして三河から無事に撤退しました。
残されたのは、恒興と長可です。後ろの2隊が撤退したとも知らず三河深くに侵攻しましたが、長久手で徳川軍が迎え撃ちます。この時の徳川軍にはは家康・信雄も参戦しておりました。こうして2時間の戦いの末、羽柴軍が壊滅し恒興と長可は討ち死にします。こうして徳川軍が勝利しました。
小牧・長久手で活躍した井伊直政とは?
井伊直政(いいなおまさ)は、徳川四天王のひとりとして家康を支えた武将です。井伊家は今川の家臣でした。生まれたのは1561(永禄4)年で、桶狭間の戦いの翌年。幼名は虎松です。この戦いでは今川義元とともに従軍していた、井伊家当主の直盛も戦死したため家中が混乱していました。
そんな折、直盛の従兄であった父直親は謀反の罪で今川氏真に殺害されます。ここで直盛の娘が直虎を名乗り、井伊家を継ぎます。虎松は直虎の養子となりますが、何度も命を奪われかけました。しかし寺に匿われて生き延びます。やがて家康と知り合い小姓になりました。
元服して直政を名乗ってからは、家康の伊賀越えに従うなど活躍。家康の命により、武田の旧臣たちを従えて「井伊の赤備え」という奇抜で個性的な軍装を整えました。その軍装は小牧・長久手が初めての戦い。ここで武功を上げたため、以降は「井伊の赤鬼」との異名を持ちます。
それは本来敵だった秀吉にも認められることになりました。のちに家康が秀吉に従うことになった際も、家康の家臣で破格の待遇を受けています。秀吉死後に家康側につかせる武将の引き入れにも活躍。関ヶ原でも家康本軍として東軍を指揮していました。
そして戦だけではなく講和の交渉役も得意で、関ヶ原の後の毛利輝元相手に「所領を安堵いたしますので、大坂城西の丸からの退去を願いたい」と、交渉して見事に退去させました。島津との和平についても外交手腕を発揮。この後30万石の大名として彦根に城を築き、幕末まで栄えます。
森長可・池田恒興を討死させた徳川忍者
小牧長久手の戦いの中、家康不在の三河に攻めることを敢行したのが秀次を大将とする軍勢。ところがこの動きを事前に察知して家康に知らせるものがいました。それは忍者です。
「家康様、秀吉の甥である秀次が率いる軍勢が三河に向かっております」「わかった、よし奇襲の準備じゃ。向こうは出し抜いたと思って油断しておる。そのすきを狙え」といったやり取りがあって、徳川軍は先回りして羽柴軍と対峙これを退けることに成功します。
そんな徳川忍者の代表格が服部正成(半蔵)です。彼は伊賀の国の出身ではなく、三河の中にある伊賀というところで1542(天文11)年に誕生しました。そして16歳に三河宇土城を夜襲したことを家康から評価されて、盃と槍を拝領します。
以降は常に家康に付き従い、多くの家臣が反逆した三河一向一揆のときですら、家康側として戦っています。そして家康が戦う数多くの戦で活躍し、何度も一番槍の功名を上げるなど大活躍。
さらに有名な本能寺の変の直後に家康が行った伊賀越えにも活躍。自らの先祖が住む伊賀の土豪と交渉して警護させることにも成功しています。小牧長久手の戦いによる正成の表向きの動きは、伊勢松ヶ島城の加勢でした。伊賀者に加え甲賀者までも指揮し、100人程度の忍者が活躍。
正成は主に鉄砲を使って秀吉側を撃退しました。その後には蟹江城の奪還にも活躍。明確な記録こそないものの、この正成を頂点とする、忍者の諜報部隊が周辺に配置されており、秀吉側の情報が筒抜けだったということが十分に考えられます。
勝った家康が秀吉に屈服した意外な理由
小牧長久手の戦いは、開始から半年後に信雄と秀吉が講和したことにより事実上の終了。家康は次男・秀康を秀吉の養子として送り込み、両軍は引き揚げます。家康は長久手で秀吉軍に勝利し、勢力を保持したまま五か国を領有していました。しかし朝廷工作が実を結び関白に任官。
いよいよ天下統一を目標としている秀吉にとって家康を自分の傘下にすることが必要不可欠となりました。当初は家康に対する再度の討伐を計画していました。
最初に家康の家臣の凋落を始めます。その結果徳川家のナンバー2の存在だった石川数正(かずまさ)が、出奔し秀吉に帰属してしまいました。数正が重臣中の重臣だったこともあり、徳川軍の機密情報まで秀吉に握られてしまいます。ここで秀吉は家康討伐を本格的に準備。ところがその最中に天正大地震が発生し、双方ともに被害があり、戦どころではなくなりました。
そこで秀吉は融和策を行います。妹の朝日姫を家康の正室にして嫁がせました。さらに自らの母親の大政所まで家康の元に人質として送り込みます。「母上!」「おお元気じゃったか」こういうやり取りを見たことで、家康はようやく秀吉に従うことを決めて上洛しました。
小牧・長久手の戦いと天正地震
小牧長久手の戦いで、家康が実質的に勝利し、その後融和策で秀吉に従う家康。実はこうなる前にもう一度武力衝突していた可能性がありました。秀吉は朝廷に目をつけます。当時関白職をめぐって対立していた二条昭実と近衛信輔の対立を利用して、自らが関白に任官。
いよいよ天下人として号令を出します。そして家康討伐の準備を進めていたといわれます。徳川方の重臣・石川数正の凋落に成功し、徳川方の軍事機密を入手。ところが意外な事件が発生します。それは天正地震と呼ばれるもので、1586(天正13)年1月18日に勃発。
当時はまだ天下統一前なので、詳しい情報がわかっていません。一説にはマグニチュード8程度あったとされ、若狭湾から三河湾に至るまで主に岐阜県を中心に震度6クラスの地震が襲いました。
このときには、飛騨の帰雲城が埋没。この地を支配していた内ヶ島氏が滅亡したのをはじめ、大垣城の倒壊しました。越中では前田利家の弟・前田秀継夫妻などが犠牲になっています。また信雄が異常としていた長島城も崩壊し、清州城に移りざるを得ない状態。
秀吉の長浜城も全壊し、数え年6歳となる娘の与祢(よね)姫が亡くなりました。とても戦どころではなくなります。また地震だけでなく津波があったという記録も残っており、伊勢湾や若狭・富山湾、さらに遠く三陸沿岸にも影響があったという疑いまで残っています。
そして津波でも多数の死者を出しました。その結果秀吉は家康攻めを断念したという説が広まりつつあります。
知られざる秀吉包囲網とは?
戦国の歴史で登場する「信長包囲網」は有名です。それとは別に「秀吉包囲網」と呼ばれる事態が起きました。小牧・長久手の戦は、織田信雄と秀吉の対立からスタート。そこに家康が加わったわけですが、このほかにも秀吉と対立していた勢力が一気に反秀吉側として立ち上がります。
信長亡き後一気に織田家を実効支配して好き勝手にふるまう秀吉を嫌った大名は次の通りです。北陸の佐々成正(さっさなりまさ)、紀州の雑賀衆(さいかしゅう)・根来衆(ねごろしゅう)、そして四国の長曾我部(ちょうそかべ)です。
それに加えて家康と同盟を結んでいた関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)らなどがこの戦いに参加しました。秀吉包囲網を築かれ、さすがの秀吉も苦戦します。主力である信雄・家康に対峙しながら軍事力の高さを利用して、反発する他の勢力とも戦います。
小牧長久手の他にも、北伊勢・美濃方面、泉州・岸和田城、北関東の沼尻、尾張の蟹江城、楽田・岩倉城など各地で両陣営が激突しています。
とくに四国の長曾我部は讃岐を平定。家康から3か国を保証するという条件で、摂津・播磨の攻撃を依頼します。それには秀吉も警戒し、戦いの最中に大坂に戻るなどの対策が取られたほどでした。
しかしこれらの秀吉包囲網が瓦解します。それは信雄が単独で講和に応じたから。家康は軍を引いて終わりますが、秀吉は包囲網に参加した各勢力を個別に撃破します。長曾我部や佐々成正は、このときに秀吉の前に屈服していきました。
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