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徐夫人と歩夫人
因みに徐夫人は陸遜の従兄弟に当たる陸尚という人物に嫁いでおり、彼が亡くなって未亡人となったので孫権の正室として迎え入れられた人物です。しかし彼女は嫉妬深いとして孫権の遠ざけられました……ですが彼女が具体的にどう嫉妬深かったのかというエピソードは分かっていません。
ただし彼女の前夫である陸尚の祖父・陸康は孫権の兄の孫策と敵対しており、最終的に憤死にまで追い込まれているという遺恨があります。もしかしたらそういった過去もあって、孫権と上手くいかなかったのかな……とも筆者は思いました。
そう思うと徐夫人は嫉妬深い、歩夫人は嫉妬とは無縁、のように扱われているのも何だか比較されているようにも見えてきて、何やらどろどろしたものを感じさせますね。
孫登と徐夫人
ただし孫登は母親として徐夫人を慕っていたようです。前述したエピソードもそうですが、孫登には歩夫人と徐夫人に対する態度が分かるエピソードが残されています。
孫登は歩夫人から贈り物があると辞退はしなかったものの、拝受するだけに留めました。対して徐夫人から衣服が贈られると、必ず沐浴してからこれを見に付けたと言います。これだけでも当時から孫登が徐夫人を母親として尊重していたということが分かります。
歩夫人の遺したもの
ここまで読んで頂ければイメージできると思いますが、筆者は歩夫人に今一つよいイメージを抱いていません。歩夫人は皇后になれる身分ではなく、ある意味で皇后になるのに必須とも言える息子もいないのです。
それにも関わらず孫権が彼女を皇后にすることを譲らなかったので、皇后が立たず、皇太子である孫登も苦労し、後に二宮の変の原因ともなる娘たちのきっつい性格……と数々の遺恨を生んでしまいました。
せめて歩夫人が自ら皇后を辞退してくれれば……と思うのですが、そういった行動もなく、このためかどうかは知りませんが後に娘がこれ(生前に皇后になれなかったこと)を理由に別の孫権の夫人を追い落とすなど、国内不和の原因を作り出しています。
この全てが彼女のせいという訳ではありませんが、せめて孫権に気に入られているならもう少し孫権に正道を説いて欲しかった……と言うのが、筆者の飾らない本心ですかね。
三国志ライター センのひとりごと
嫉妬しない慎み深い女性というイメージがある歩夫人ですが、筆者のイメージはどちらかというと「何も主張しない女性」です。自分の意見を言わないから孫権に気に入られたけれど、そのために後々に遺恨、禍根を生み出してしまったのではないかと思います。
今回は少々苦々しいお話となりましたが、歩夫人の新たなイメージとして……この機会に述べさせて頂きました。二宮の変から見た歩夫人の一面、役割、きっかけ……皆さんは、どう思いますか?
参考文献:呉書呉主伝 三嗣主伝 妃嬪伝 建康実録
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