NHK大河ドラマ『麒麟がくる』<京伏魔殿編>で、容姿の美しい異母兄、正親町天皇に劣等感を持ち、また、上洛した織田信長を成り上がり者として嫌い、守旧派の幕府官僚、摂津晴門や朝倉義景、さらには武田信玄等と結び織田信長包囲網を築く大魔王として登場するのが、天台座主、覚恕法親王です。
しかし、ドラマでの禍々しい演出と違い、史実の覚恕は記述も多くなく大魔王と呼ぶには程遠い人物だったようです。
この記事の目次
そもそも法親王でもなかった
覚恕は、戦国時代の天台宗の僧で、大永元年(1522年)後柏原天皇の皇太子知仁親王(後の後奈良天皇)の皇子として産まれます。しかし、母の身分が低かったせいか、実際には親王宣下を受けていません。なので、覚恕法親王と呼称するのは間違いであるようで、曼珠院覚恕が妥当な呼び方であるようです。
ドラマでは、異母兄弟で容姿が美しい正親町天皇に嫉妬の炎を燃やしている設定ですが、父である後奈良天皇には、正親町天皇と覚恕の2名しか男子がなく、そういう理由からの設定かも知れません。
覚恕は3歳で延暦寺の子院曼珠院門跡慈運を師として得度(出家の儀式)し、天文6年(1527年)慈運の死に伴い北野天満宮別当(長官)を相続、弘治3年(1557年)准三宮の宣下を受けて金蓮院准后と称されました。
難しい説明は避けますが、准三宮とは太皇太后、皇太后、皇后に次ぐ地位と思って下さい。覚恕は仏門に入りつつ、親王宣下こそ受けられなかったものの、皇族としてそれ相応の地位を得ていたという事でしょう。
天台座主になる!
永禄5年(1562年)伏見宮から青蓮院に入っていた尊朝法親王の得度で覚恕は戒和上を務めました。戒和上とは、新しく出家する僧に戒律を授ける役目で、武家でいう烏帽子親のような重要な役割です。
かくして、キャリアを積み上げた覚恕は、元亀元年(1570年)延暦寺の最高の地位、天台座主166代目に輔任されます。延暦寺に連なる全ての末寺を統括する権力者に上り詰めた覚恕ですが、ここからとんでもない展開が待っていました。
志賀の陣で信長の手紙を黙殺
さて、越前の朝倉義景は、永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて上洛した時、信長に救援要請を受けても黙殺しました。その後、上洛を果たした信長は要請に応じなかった朝倉義景を不届きとして討伐しようとします。しかし、同盟関係だった浅井長政が裏切った事により、信長は急遽退却しました。
その後、姉川の決戦を経て、三好三人衆が元亀元年8月20日に、摂津の野田・福島城に拠って挙兵すると信長は、京都から南下して三好三人衆と戦いますが、途中で石山本願寺が三好三人衆についてしまいます。
この機を受けて、浅井長政と朝倉義景は京都に向けて進軍しますが、宇佐山城で森可成が500名の兵力で奮戦して時間を稼ぎます。ここで、本願寺顕如の要請を受けて延暦寺の僧兵も攻め手に加わりました。
僧兵が動いたのですから、もちろん、覚恕がGOサインを出したのでしょう。ところが、宇佐山城は奮戦して落城せず、戻って来た織田軍本隊を避けて、浅井・朝倉勢は比叡山に後退します。
ここで、信長は比叡山に
「浅井・朝倉に加勢しないなら織田家が横領した延暦寺の所領を回復する、加勢するなら焼き払う」と通告しました。覚恕は、この打診を黙殺、織田軍は2カ月近くも比叡山を包囲しますが、反織田勢力結集を恐れて朝廷と足利義昭を通じて12月に和睦します。
【次のページに続きます】