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可児才蔵とはどんな人?貧乏くじ8人の主君を渡り歩いた「笹の才蔵」


 

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何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

家臣が主君を代えるのが当たり前だった戦国時代、それでも、8人もの主君を渡り歩いた武将と言えば、ちょっと珍しいのではないでしょうか?

 

今回は、度々主君を代えながらも、何故か江戸の庶民に愛された可児才蔵(かにさいぞう)について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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仕える主君が次々滅んでしまう不運な男

 

可児才蔵は本名を吉長(よしなが)と言い、天文23年(1554年)美濃国可児郡(かにぐん)に生まれました。幼少期を願興寺(がんこうじ)で過ごし、若い頃に宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の開祖、覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい)に槍術を学んだそうです。

 

柴田勝家

 

その後、可児才蔵は、織田信長の家臣だった柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)、前田利家、森長可(もりながよし)、さらに本能寺の変後、織田信孝に仕えますが天正11年(1583年)に信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自害すると、今度は秀吉の甥の羽柴秀次に仕えました。

 

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

しかし、こうしてみると才蔵の主君は、前田利家を除くと、誰もかれも戦いに敗れて討死した人ばかりだと分かります。何度も主を代えた割に才蔵が悪く言われないのは、貧乏くじを引き続けたせいかも知れませんね。

 

長久手の戦いで真っ先に敗走しクビになる

豊臣秀次

 

さて、羽柴秀次の部下になった可児才蔵ですが、主君の羽柴秀次は、初陣で小牧・長久手の戦いに参加、徳川家康と敵対します。しかし、秀次は老獪(ろうかい)な徳川家康の敵ではなく、その行軍は全て把握され、後方から水野忠重(みずのただしげ)丹羽氏次(にわうじつぐ)大須賀康高(おおすがやすたか)勢に、側面から榊原康政(さかきばらやすまさ)勢に襲撃されて壊滅します。

 

榊原康政

 

可児才蔵は、もうダメだと思うと、誰よりも先に戦場を逃げ出し、それを羽柴秀次に見られて激怒され、クビになったと伝わります。

 

馬にのり凱旋する将軍モブ

 

また、この時、秀次は馬を失い徒歩で逃げていましたが、その前を才蔵の馬が通り抜けました。秀次は「馬を下りよ」と命令しますが、才蔵は「雨の日の傘にて(そうろう)」と言い捨て、さっさと先に逃げてしまったと伝えられています。

 

馬は自分が逃げる為に必要だから、雨の日の傘と同じで主君でも譲れないという意味です。いかにも人を喰った才蔵らしいセリフですね。

 

はじめての戦国時代

 

佐々成政を経て福島正則に仕える

 

羽柴秀次に暇を出された可児才蔵は、次は佐々成政に仕えますが、こちらも肥後国人一揆を招いたとして自害に追い込まれたので、再び浪人になり、今度は福島正則(ふくしままさのり)に仕えました。

 

しかしこれまでと違い、手柄さえ立てれば細かい事は気にしないガッハッハな性格の正則は、可児才蔵と馬が合い、才蔵にとっては最後の主君となります。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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