鎌倉時代の武士が、領地を幕府に保証してもらう代わりに、いざという時には幕府の為に戦う、御恩と奉公の関係にあったのはよく知られています。
しかし恩賞が出せるのは、敵を打ち破ってその領地を没収できた時であって、元寇のように敵が海外にいては、いくら鎌倉武士が頑張っても幕府は恩賞の与えようがなく、生活に追い詰められた鎌倉武士は次第に幕府を見限っていきました。
ところが恩賞以外にも鎌倉武士がボンビーになる要素は存在していたのです。
この記事の目次
鎌倉武士は自営業者だった?
同じ武士というカテゴリーでも鎌倉武士と江戸時代の武士は大きく違いました。
例えば、江戸時代の武士は石高に応じて幕府から俸禄を受け取って生活しているサラリーマンでしたが、鎌倉武士は幕府から直接給与をもらう事は無かったのです。鎌倉武士の給与は、幕府から与えられた土地であり、そこから上がる収穫物を自分で徴収して生活費に変えていました。そういう意味では、鎌倉武士はサラリーマンというより自営業者だったのです。
この土地を自分で管理していて、幕府からは直接給与を受けないというシステムが、後々に大きな問題になっていきます。
承久の乱後 堕落し没落する鎌倉武士
承久3年(1221年)後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の執権、北条義時討伐の兵を挙げます。しかし、迅速な鎌倉幕府の動きにより、上皇方の軍は敗北、同時に上皇や公家、武士の荘園3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられました。
これにより、多くの新補地頭が誕生し、鎌倉幕府の勢力は大きく西国へも拡大するのですが、皮肉にもこの事件が鎌倉武士堕落の一因になりました。
西国に領地を与えられた鎌倉武士は、自身、あるいは一族が東国から西国に赴任しますが、自給自足の農村が多い東国に比較し、早くから土地が開けて物流が盛んな西国は都市化しており、お金さえあれば何でもできる一大消費地でした。
こうした中で、質実剛健な鎌倉武士も都会の絵の具に染まってしまい、経済力に見合わない贅沢をして、財産をすり減らし土地を担保に借金をして、ついには土地を手放すケースが続発しました。
前述した通り、鎌倉武士は直接、幕府から給料をもらっているのではなく、与えられたり、保障された土地が生活の財源ですから、土地を失えば武士は無収入です。
無収入では、一族郎党を養えず、馬も武器も用意できません。いざ!鎌倉となっても、何も出来ない役立たずになるのです。当時、このようなオケラになった鎌倉武士を無足人と言いました。
危機意識を持った鎌倉幕府は、1267年には禁令を発して、幕府から受けた領地、個人的に購入した私領を問わず売買を禁止し、売ってしまった場合には買い戻すように命じています。元寇を前にして、すでに困窮する鎌倉武士は大勢いたのです。
元寇後の戦費負担が追い打ち
困窮する鎌倉武士の中には、文永の役・弘安の役を失った所領を回復する好機と捉えた、竹崎季長のような人物もいました。しかし、すでに述べた通り、海を渡ってやってきた蒙古軍を撃退しただけの鎌倉幕府には、与えるべき土地はありません。
おまけに、さらなる元寇に備えて、鎌倉幕府は異国警固番役を定めて、御家人たちに九州沿岸の防備を命じます。もちろん、これも武士たちの自腹でした。恩賞もなく負担は増大、こうして鎌倉武士たちの不満は、幕府への憎悪へと変化していくのです。
関連記事:モンゴルが日本を攻めたのはデマが原因か?意外に知られていない元寇
関連記事:【アンゴルモア元寇合戦記】元寇とは?鎌倉時代の防衛戦争
土地の兄弟分割が鎌倉武士を貧しくする
ここで疑問が生まれます。では、堕落しなかった鎌倉武士は、土地を失っていない者たちは幕府に不満を持たなかったのではないか?という事です。
ところが、堕落しなかった武士には武士で、また別の問題がありました。当時の日本では、概ね分割相続が採用され、当主が亡くなると領地は男の兄弟で分割されていたのです。
分割は本家を継ぐ子が一番大きい土地を得たのですが、それはともかく、新しい恩賞を得ない限り、御家人の土地は世代を経るごとに小さくなるのが宿命でした。
当時の日本人の平均寿命を大体50年と考えると、20歳で土地を相続して30年で1サイクルとして、鎌倉幕府の成立が1185年だとしても、1215年、1245年、1275年と元寇までに3回、土地の細分化が起きていた事になります。
一方で鎌倉幕府は、1247年の宝治合戦で北条氏の独裁が完成し、内乱は起きにくくなり、恩賞のリサイクルチャンスは消滅していきました。鎌倉武士は、堕落してもしなくても、生活的に追い詰められていたのです。
【次のページに続きます】