日本の戦国時代は多くの名将が天下統一への火花を散らす時代というだけではなく、戦争の副産物として発生した捕虜や乱取りで拉致された人々が奴隷として国内ばかりではなく国外にまで売り飛ばされる暗黒の一面がありました。
一方で、日本人奴隷は非常に戦闘力が高く、16世紀に東南アジア貿易の覇権を争ったポルトガルとオランダの戦争に傭兵として動員されていた事実も明らかになってきたのです。
今回は渡邊大門著、人身売買・奴隷・拉致の日本史を参考に知られざる日本人傭兵の実態を解説します。
この記事の目次
1604年ゴア市民よりポルトガル国王への意見書
海外に売られた日本人奴隷は女性の場合には、労働力、そして性的な搾取の対象となり、男性の場合には、奴隷の期限が過ぎると傭兵として重宝されていました。その事が分る文書が、1604年ゴア市民よりポルトガル国王へ宛てられた意見書から見えてきます。
そこには、以下のような事実が記載されていました。
日本人奴隷は労務年限が来ると解放されて陛下の臣民となる。彼らはゴアに多数存在する武勇の民で戦争に貢献した。最近、オランダとの戦いで見られたように包囲戦や戦況が緊迫した状態になると、ポルトガル人1人が若者(日本人奴隷)七、八人を率い槍と鉄砲を持って現れる。インドにおいては、この日本の若者のみが軍役に耐え得る奴隷である。
引用資料 改訂増補 16世紀日欧交通史の研究
当時、インドのゴアはポルトガルの領地でしたが、周辺にはイスラム教国が広がり紛争状態にあり、同時にアジア貿易を巡ってオランダと対決していました。そこでゴアとしては、ポルトガル人兵士を本国に求めたのですが、それではコストも時間も掛かるので、勢力圏を守る為に日本人奴隷をもっと寄こすようにポルトガル国王に陳情していたのです。
また、当時ポルトガルは徳川幕府による日本人を奴隷として海外に売り飛ばさないようにという誓約書にサインしようとしており、そんな事をしたら、ゴアをオランダから守り抜く事は出来ないと釘を刺す目的もありました。
日本人奴隷は傭兵として価値を見出された
これは衝撃の文書です。
16世紀に日本人が多くは奴隷として、世界中に売り飛ばされていた事は知られてきていましたが、その中で若い男性が奴隷の年限を終えると勇敢な傭兵としてゴアのようなポルトガルの植民地に留まり、ポルトガル人兵士の従者として、ある時にはイスラム勢力、そして、アジア貿易のライバルであったオランダとも交戦していた事実が分かるからです。
また別の文書では、日本人奴隷は強く勇敢だが、謀反気があり、油断すればイスラム勢力に通じてポルトガルを襲うかも知れないとも書かれています。
オランダも日本人奴隷を高く評価した
また、奴隷として東南アジアに売りとばされた日本人男性の奴隷がオランダに雇用され、ポルトガルとの戦いに投入されていたらしい事実も分っています。オランダ人の評価では、日本人奴隷はよく訓練されており、しかも給与や食事が安く済むと書かれているそうです。
さすが経済感覚に聡い、割り勘の国ですが、それはさておき、16世紀のオランダとポルトガルのアジア貿易争奪戦の最前線で日本人奴隷が傭兵として戦っていたのは意外な事実でしょう。
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徳川幕府は傭兵と武器を供給していた
さらに驚くのは、日本人を奴隷として売る事を禁止していた徳川幕府が日本人傭兵の供給については、合意に達していたという事実です。同時に幕府は、日本国内で製造した武器をオランダに供給して対価を得ていました。
なんと、幕府はポルトガルとオランダの戦争に武器と傭兵を供給する事で、戦争に一枚噛んでいたのです。数年後には、制限貿易に舵を切るとは思えない海外に目を向けた徳川幕府初期の知られざる一面ですね。
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