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反董卓連合軍はなんで董卓を追いかけないのか?
さて、董卓をぶっ殺すとばかり集まった反董卓連合軍ですが、董卓が洛陽を焼いて長安に逃げ込むと、それ以上は追いかけようともせずに解散していました。
どうして、董卓を追いかけなかったかというと、第一には兵糧が尽きたという事が大きいのですが、それ以上に追いかける必要がなくなった点があります。
反董卓連合軍は、董卓がクビにした皇帝、少帝と言いますが、この人を皇帝と認めていて、董卓が新しく即位させた皇帝、こちらは献帝と言いますが、この皇帝を認めませんでした。
つまり、前の少帝が殺害された時点で反董卓連合軍は、これで漢は事実上終わった。漢帝国滅亡と感じたんですね。そして、群雄たちは、これからは乱世だと考え、めいめいが自分の領地に帰り、敵の領地を奪う群雄割拠の時代が始まります。もう、董卓なんかどうでもよくなったので、殺そうとはしなくなったのです。
そうこうしているうちに、董卓は長安の都で呂布に暗殺されてしまいましたが、一度、漢王朝に背を向けた諸侯は、皇帝関係なく領土の奪い合いに熱中していたのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
董卓が殺されるほど憎まれた理由は、皇帝を勝手にクビにし勝手に即位させ、前の皇帝を勝手に自殺に追い込んだ事。後は、洛陽を焼いたがメインの理由です。お分かりいただけたでしょうか?
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