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孫策の離脱は?
袁術の力が弱まったことで孫策は雌伏の時を経て天下に名を挙げることとなります。ここら辺の流れは大体の物語で「孫策はその時を待っていた」ように描写されますね。
確かにお家再興を考え、父の部下たちを取り戻し、天下に名を挙げるならもってこいの瞬間。しかし孫策は本当に「袁術が弱まる時を待っていた」だけなのか……?
筆者はあらゆる意味でこの袁術の「皇帝自称」が孫策離脱のきっかけだと思うのです。
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袁術と孫策は不仲ではなかった?
孫策は孫堅の子と言うこともあり、若くして名将の兆し在りと思わせる若武者でした。そんな才能を発揮していく孫策のことを袁術は「自分にも孫策のような息子がいたら」と高く評価していたと言います。
しかし孫策が戦の褒美に太守の座を持ち出しても反故にすることが多く、孫策はその事に不満を持つようになったと言います。これは孫策が離別するきっかけとなったとも言えますが、逆を言うと孫策にきちんとした評価さえ(見える形)で与えていれば、孫策は離別することはなかったのでは?
もっと言うなら袁術は孫策を可愛がっていて、手放したくなかったのでは……?手放したくない理由に「敵が増える」「面倒になる」というのも確かにあると思いますが、色々な意味で手元に置きたいと思っていたのは間違いないでしょう。
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袁術の家族
そして袁術の家族ですが、袁術の死後、劉勲の元に身を寄せていた所、孫策が劉勲を破り、その後は孫策によって保護されました。そして袁術の娘はその後、孫権の側室となり袁夫人と呼ばれています。
袁夫人は品行方正で穏やかな女性でしたが残念ながら孫権との子はできず、孫権は他の側室の産んだ子を彼女に育てさせたりしました。孫権は後に袁夫人を皇后に立てようと考えましたが、子が無いことを理由に袁夫人はそれを受けないまま、亡くなりました。
このように袁術の家族は孫策に保護されているばかりか、孫策の弟の孫権の妻の一人に迎え入れられる待遇を受けています。これは孫策が袁術の保護を受けている間、何らかの恩義を感じていたからだと思うのです。孫策も孫策で袁術の恩義に報いようとしていたのではないか、と筆者は考えます。
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「かっこうの機会」
ではなんで孫策が袁術から離反したかと言うと……皇帝です。この皇帝を自称した際、袁術というと敗北に敗北を重ねていました。
一方北では曹操、袁紹が基盤を整えて一大勢力となっている中、袁術と言えば徐州進行からケチの付き続け。
しかし今まで世話になっているのに落ち目となったから見捨てるとなると世の謗りを受ける……そんな中、畏れ多くも献帝という皇帝がいるというのに、皇帝を自称したのです。
袁術は落ち目とは言え献帝に喧嘩を売った存在、彼に付くというのは「皇帝の敵対者」。
これは「理由」です。恩義があった者としても、見限りたかった者としても、離別したかった者としても、絶好の理由を与えてしまった……色々な意味で袁術のこの行動が、孫策に離別の機会を与えてしまったのでは……?
という「孫策は袁術から離れがたかった」という目線から考えてみたのですが、いかがでしょうか?
三国志ライター センのひとりごと
三国志演義を見ていくと、ああこれは離れたいな……と思わせる袁術です。じゃあ正史を見ても、ああ……これは離れたいなぁ……と思ってしまう袁術。色々な意味で最後まで一緒にはいられないけど、そんな彼を見限る瞬間はどこかな?
と考えたのが今回のきっかけでした。善人ではない、悪人ではある、でも稀代の悪逆非道かと言われるとそうでもない……そんな袁術ですが、彼も今後再評価や注目されることはあるのかなー、なんて、考えてしまった筆者でした。
参考文献:呉書孫破虜討逆伝 魏書袁術伝 魏書武帝紀
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