三国志における鄧艾と言えば、蜀国を滅ぼした将軍として知られています。数々の功績を残した鄧艾ですが、若いころはたくさんの苦労をしたのだとか。
その原因の一つが「吃音」でした。そんな鄧艾がどうして出世することが出来たのでしょうか?
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吃音とは?
吃音とはしゃべる際に「瞬間あるいは一時的に無音が続く」「言葉が連続して発せられる」などの症状を言います。また、それに伴い瞬きが多くなったり、手足を振るなどの行動がみられることもあります。
これは吃音状態を脱するための動作が定着したものと考えられています。鄧艾は幼いころからこのような症状があったそうです。しかし、のちに名将となることが出来たのです。
幼くして父を亡くす
鄧艾の父はどんな人だったかはわかっておらず、鄧艾がまだ幼いころに亡くなっています。その後は母と共に貧しい暮らしを送っていたそうです。
しかし、12歳のとき曹操が荊州を支配した際、「屯田民」として故郷から連行されてしまいます。「屯田」とは新たに開墾をさせることで、恐らく鄧艾親子は荊州の開拓のために連れて行かれたと思われます。
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12歳の時役人となる
12歳か13歳くらいのとき、鄧艾は役所に召し出され役人となります。この若さで役人に呼ばれるくらいですから、周囲では相当なうわさとなった秀才だったと考えられますね。
実際、郭玄信と言われる謁者(取り次役)が鄧艾と同僚の石苞(のちに大司馬となる)らと仕事をした際、「あなた方はのちに九卿、宰相となるでしょう」と、言われています。鄧艾が配属されたのは典農部民という農業関係の部署でした。
吃音のため周囲に評価されず
若くして役所に入った鄧艾でしたが、そこでも吃音に悩まされることになります。吃音の症状としてスムーズに会話ができない、という事もありどうしても周囲に煙たがれてしまったのです。
そのため、出世コースになかなか乗ることが出来ず、貧しい暮らしをしていました。しかし役所の仕事をコツコツとこなす中で苦学をし、少しづつ昇進をしていきました。そんななかであるエピソードがあります。同じ役人をしていた者の父が、鄧艾の貧しさに同情し、手厚い援助を行ったそうです。しかし、鄧艾は全くお礼を言わなかったと言います。あまり周囲に評価されていなかったため、疑心暗鬼になっていたのかもしれませんね。後年、汝南太守となった鄧艾はその援助してくれた人を祭り、その妻子も優遇したと言います。きちんと恩に報いたのですね。
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