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地理や地形に精通していた鄧艾
鄧艾は役人の仕事をする中である行動をしていました。高い山や沼地などを見つけるとそのたびに測量をしたり、
「戦の際どこに軍営を置くのが適当か」を考え、図形や地図を作成していたといいます。当時の周辺の人々は鄧艾のこの行動を不思議に思い、馬鹿にしていました。しかし、この行動がのちに鄧艾の出世への道を開くことになるのです。
司馬懿に見いだされる
ある日鄧艾は都に使者として赴くことになります。そこでたまたま当時の都の権力者「司馬懿」に謁見することが許されるのです。
そこで司馬懿に才能を見いだされ、都で出世していくことになります。彼が得意としたのは過去の仕事の経験を生かした農政でした。寿春の地域を視察した際、「多くの開墾できる土地があるが水が少ない」事を見抜き、「済河論」という著書を完成させたうえで、司馬懿に運河の必要性を説いたのです。
その運河は魏国の食糧増産、および運送や軍事に大いに貢献し、更に鄧艾の評価は高まっていったのです。その後は軍政にも鄧艾は力を発揮し、のちに蜀を滅ぼすことに大きな役割を果たすことになるのです。
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吃音と貧しさを克服し、大出世した鄧艾の評価
これまで述べたように鄧艾は吃音、貧しさというハンデを背負いながら、軍を動かすほどの大きな出世をすることになりました。そんな境遇の鄧艾は中国でも人気があるらしく、小説の「三国志演義」でも活躍し、蜀の姜維のライバル的なポジションを与えられています。
そしてその伝は吃音の人を励ます例としても使われているそうです。また、中国でも鄧艾の墓は現存し、一番有名なのは四川省剣閣県にある廟です。昔は大きな廟で地元住民の手でお祭りなども行われていたそうですが、現在は墓石と正殿を残すのみです。
三国志ライターみうらの独り言
ハンデを乗り越えて出世した人物はいつの時代も尊敬の対象です。鄧艾もかなりの努力をしたことが想像されますね。私たちもハンデを言い訳にすることが無いようにしたいものです。
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