高祖劉邦と劉備の「子供の扱い」について考察

2021年2月4日


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劉邦と張良と陳平

 

高祖(こうそ)とも呼ばれる漢王朝(かんおうちょう)を開いた劉邦(りゅうほう)

 

劉備の黒歴史

 

そしてその血筋を受け継いでいると噂の(しょく)皇帝劉備(りゅうび)。実は彼らの共通点にその「子供の扱い」があった?掘り下げてみると何だかちょっと面白いこのお話。今回はその逸話を紹介していくと同時に、その面白さも見ていくとしましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長坂の戦い

曹操から逃げ回る劉備

 

さて時代をざっくりと進めましてこちらは有名な長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)。長坂の戦いで曹操(そうそう)軍から逃亡する劉備は、妻子とはぐれてしまいます。

 

阿斗を劉備まで届ける趙雲

 

それを発見して保護したのが後に五虎(ごこ)将軍に任命される趙雲(ちょううん)将軍。最早生きては再会できぬと思われた我が子を無事に保護、喜んだ劉備は……我が子を放り投げ「大将を失うところであった」と言いました。

 

ブチギレながら阿斗を投げる劉備

 

これが長坂の戦いで見られる、劉備とその子供のエピソードです。

 

関連記事:長坂の戦いの全容はあっさりめ?劉備と趙雲の逸話などはどこまで本当なの?

関連記事:長坂の戦いの時、趙雲はどのくらい活躍した?二つの三国志を比較してみた

 



この行動、どう思う?

はじ三倶楽部 自分が気づかなかった新たな視点に気付かされた人

 

で、実際にこの行動、皆さんはどう思いますか?

 

「赤ちゃんを放り投げるなんて!」

「それでも人か!」

「親失格だわ!」

 

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

とは思いませんか?もしくは一度はそう思ったことはないでしょうか?

このエピソードに関してはいくつかフォローがあります。

 

「我が子を大事に思うあまりに大事な部下を失うかもしれなかった大将としての反省」

「そもそも儒教では子供が親のために働くべきなので敢えて子供を粗末に扱った」

「子供よりも趙雲の方が大事だよ☆アピール」

 

ポイント解説をするセン様

 

と、いう風にいくつか理由もあるのです。そして筆者はこの場面にもう一つ

「劉備は劉邦の真似をした」を唱えたいと思います。

 

劉邦の逃走

項羽

 

さてさて時代はずっと遡って劉邦の時代。ある時劉邦は項羽(こうう)に敗れ、逃走していました。思えば曹操から逃亡している劉備と境遇が似ていますね。

 

劉邦

 

そんな中で逃走の最中、息子と娘と再会、二人を馬車に乗せて逃げ続けます。しかし迫る追手に劉邦はこう考えました。

 

「馬車を軽くしなければ逃げられない」

 

劉邦は息子と娘を馬車から突き落として、逃げる速度を上げようとしたのです。

 

関連記事:背水の陣は韓信だけではなかった!項羽が使った悲愴の決意を示した行動とは?

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夏侯嬰「何してんだ!!」

夏侯嬰(かこうえい)

 

この劉邦の行動に驚いたのが、御者をしていた夏侯嬰(かこうえい)

 

「危険だから、馬車が遅くなるからと言っても子供は捨てられない!!」

 

と馬車に二人を拾い上げて乗せました。劉邦は怒ってまた子を突き落とし、夏侯嬰が拾い……怒った劉邦は夏侯嬰を何度も斬ろうとするも、そうしてしまえば御者がいなくなるため止めて……

 

一度ならず数回繰り返したと言います。正直、そんなことしている暇があったら逃げることに集中した方がいいのではないかと思うのは素人考えでしょうか。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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