13世紀の末に小アジアに建国して以来、東西貿易の要衝であるイスタンブールを首都にして20世紀の初頭まで623年も栄えたのがオスマン帝国です。過去はオスマントルコと呼ばれていましたが、現在ではオスマン帝国と呼ばれる事が普通ですので、この記事でもオスマン帝国の呼称で統一します。
欧州に比較し、メジャーではないオスマン帝国ですが、一体どうして建国され繁栄し、そして滅亡していったのでしょうか?
この記事の目次
オスマン帝国初期
13世紀の小アジア(アナトリア)西部はセルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していましたが、十字軍の侵攻を受けて衰退、さらに東方からモンゴルの侵入を受けて、1242年にはその属国となります。
ルーム=セルジュークの弱体化で、小アジアには、トルコ人のイスラム戦士の集団ガーズィーが無数に誕生して抗争を開始。その中で有力勢力はベイ(君侯)を自称して小規模な君侯国が誕生しました。オスマン帝国の創始者であるオスマン=ベイもそんな君侯の1人で1299年、オスマンはガーズイーを率いて小国家を独立させます。
2代目のオルハン=ベイは西のビザンツ帝国の弱体化に標的を絞って侵攻を繰り返しビザンツ領のブルサを奪い、1326年に最初の首都を設置。
その後もオスマン君侯国は、小アジアの小さな国を併合し領土を拡大、イスラム法学者のウラマーを招いて統治機構を整えていきました。こうしてオスマン帝国は大帝国への足掛かりを築く事になります。
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コンスタンティノープルの包囲まで
14世紀になると、オスマン帝国はビザンツ帝国の分裂に乗じる形でダータネルス海峡からバルカン半島へ勢力を拡大。1361年頃には、ムラト1世がアドリアノープルを攻略し1366年には新都市エディルネと改称します。
さらに、オスマン帝国は北上してセルビア、ブルガリアなど現地勢力を下しながら侵攻し、ムラト1世は1389年のコソヴォの戦いで、次のバヤジット1世は1396年ニコポリスの戦いで、それぞれキリスト教連合国を撃破、コンスタンティノープルを包囲する形成を固めました。
ティムールの悪夢
しかし、この頃に東方からチンギスハーンの末裔を名乗るティムールが小アジアに侵攻。バヤジット1世は軍を東に向けて1402年にティムールとアンカラで戦い敗北します。バヤジットはティムール軍の捕虜となり身代金交渉の途中で死去しました。
バヤジット1世の急死により、オスマン領内は4人の息子が後継者争いを演じる事になり帝国は衰退。ビザンツ帝国は包囲を解かれ滅亡を免れます。一方ティムールは、これ以上西方には行かず、今度は明王朝との戦いに向かったのでオスマン帝国はティムールの危機を回避できました。
メフメト2世がビザンツ帝国を滅ぼす
やがて、4人の王子からメフメト2世が抜け出してオスマン帝国を相続し、戦力として領内のキリスト教徒の子弟イェニチェリを強制徴募しイスラム教に改宗させ訓練するデウシルメ制を採用し常備軍として確立します。
オスマン帝国は当時実用化された鉄砲を逸早く導入してイェニチェリに装備する事で軍事力を強化。やがて騎兵の時代から鉄砲を装備した歩兵軍団の戦いに戦法がシフトするとイェニチェリはオスマン帝国軍の中核を為すようになります。
国内の改革を成し遂げたメフメト2世は父バヤジット1世の時代に頓挫していたコンスタンティノープル包囲を再開。1453年に、ついにビザンツ帝国を滅ぼしコンスタンティノープルをイスタンブールと改称して首都と定めました。
ビザンツ帝国の崩壊がイタリアルネサンスに繋がる
ビザンツ帝国を併合したメフメト2世はバルカン半島のほぼ全域を征服し、カフカス地方や北海北岸にも領土を拡大します。
この地域は東方キリスト教の世界であり、オスマンの脅威を西ヨーロッパのキリスト教国に伝えると同時に、ビザンツ帝国の滅亡と前後して多くのギリシャ人学者がフィレンツェに亡命した事でイタリアのルネサンスに刺激を与える事になりました。
オスマン帝国の領土拡大は続きます。セリム1世は1514年にイランから侵攻してきたサファヴィー朝軍をチャルディランの戦いで撃破し領土を東方に拡大。1517年にはエジプトマムルーク朝を倒して聖地メッカとメディナの保護権を得たと考えられています。
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オスマン帝国拡大の秘密
どうして、小アジアのアナトリアに誕生した成り上がりの君侯が興したオスマン帝国が千年も栄えたビザンツ帝国を滅ぼし、バルカン半島を征服しエジプトまで支配下に収めたのでしょうか?
その大きな理由は、オスマン帝国を建国した人々に良い意味でアイデンティティが無かったからです。オスマン帝国は征服した領土の人民をイスラーム教徒か非イスラームかで分離して税金の額や社会的な地位にランクをつけましたが、それらはイスラム教に改宗さえすれば無くなるハードルでした。
そして、仮にイスラム教に改宗しなくても、才能と能力があれば、民族や宗教を問わず、どんどん採用し登用する寛容さをオスマン帝国は持っていたのです。
オスマン帝国では民族による優位は余りなく、いかに帝国に忠誠を尽くしているかというオスマン人としての貢献が評価され、実力主義の色彩が強かったようです。事実、オスマン帝国の為政者は公用語さえ定めず、帝国領内では様々な言語が優劣なく飛び交っていました。
この自由な能力主義の帝国が、勢力を伸ばしていけたのは、ある意味では当然の帰結だったのです。
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