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この記事の目次
子孫は霍光を真似できず滅亡
霍光が死んだ後は霍禹が跡を継ぎますが、霍光に全く及ばない能力にもかかわらず、権力を過信して傍若無人に振る舞い、宣帝の皇后の許平君を毒殺して代わりに一族の娘を宣帝の皇后に立てるなど専横を極めます。
世慣れた宣帝は怒りを表面に出さずに徐々に権力を回復。人望を失い追い詰められた霍禹等が謀反を計画したのを幸いに勅命を出して霍禹を捕え、腰斬という残酷な刑罰で処刑した後、その生母や姉妹など一族を皆殺しにしました。
こうして宣帝は、武帝以来の霍氏の勢力を根こそぎ一掃して、権力を皇帝の下に取り戻したのです。
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霍光が賞賛された理由
自らが即位させた劉賀を自分の都合で廃位させた霍光は、どうして非難されず逆に讃えられる存在になったのでしょうか?
第1に霍光個人は極めて謙虚で驕り高ぶらなかった事です。個人的に群臣の憎しみを買わなかった事は、敵を減らす事に役立ちました。
第2には、決断が早く僅か27日で劉賀を玉座から追放した事です。これが、1年でも放置していたなら劉賀も正式な皇帝として承認されて与党も出来て、排除するのは難しかったでしょう。
第3は、必ず上官皇太后に詔を出させ自身は裏に回った事です。当時の手続きを重視し霍光の独断でやったという印象を回避しました。
第4には、霍光が推薦した宣帝が前漢中興の祖とされる名君だった事です。霍光の劉賀廃位を批判すると、廃位の結果即位した宣帝を批判しないわけにはいかなくなりますからね。
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合肥侯擁立事件の引き合いに出された霍光
剛腕のキングメーカーぶりを見せつけながら賢臣として評価された霍光。彼は商王朝初期の名宰相、伊尹と並び主君を追放しながら名臣と讃えられる事になります。
それから200年以上後、クーデターを興して霊帝を廃位し合肥侯を擁立しようとして、冀州の王芬や周旌、許攸等が曹操もクーデターに引きこもうとした時、曹操は霍光の事例を引き合いに出しクーデターは失敗するとして参加を断りました。
曹操はクーデターそのものに反対ではありませんが、霍光の細心の注意に比較し、杜撰極まりない王芬や周旌の合肥侯擁立にはNOを突きつけたのです。このように霍光はクーデターを正当化する大義名分として、その後も簒奪者たちの模範として存在し続けたのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
明らかに不忠の極みであるかに見える家臣による主君の廃位。しかし、それもやり方次第では、やむを得ない事、むしろ政治を悪化させない為によくやった!
と後世に賞賛される事があるんですね。
参考文献:漢書 霍光伝
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