曹操が断ったクーデター?合肥侯擁立事件とは?




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霊帝

 

後漢のボンクラ皇帝としてお気楽な人生を送ったかのように見える霊帝(れいてい)。しかし、実際には黄巾(こうきん)の乱の直後、霊帝を廃して合肥(ごうひ)侯を即位させようとするクーデター未遂事件に巻き込まれた事がありました。

 

魏の曹操孟徳

 

そしてこのクーデター計画には曹操(そうそう)も誘いを掛けられていたようです。今回は未遂に終わった合肥侯擁立(がっぴこうようりつ)事件について解説しましょう。




合肥侯擁立事件のあらすじ

朝まで三国志2017-03 kawauso

 

では、いつものように忙しくて記事を全て読んでいられない読者さん向けに合肥侯擁立事件についてズバッと解説します。

 

1 西暦184年6月冀州刺史王芬、南陽の許攸(きょゆう)沛国(はいこく)周旌(しゅうせい)が中心となり
王族合肥侯を擁立して霊帝を廃し中常侍(ちゅうじょうじ)を一掃する計画を立てる
2 王芬(おうふん)は曹操や華?(かきん)にもクーデター参加を呼びかけるが拒否
3 霊帝が巡幸を計画し洛陽を離れると王芬は黒山賊討伐の名目で朝廷の兵士を借り、クーデターを準備
4 霊帝巡幸の直前、天変地異があり巡幸は中断し討伐も中止。
5 王芬に朝廷より呼び出しがあり、恐れた王芬は自殺する

 

このように、合肥侯擁立クーデターは未然に防がれてしまうのですが、どうしてクーデターが失敗してしまったのかについて、さらに詳しく見ていきましょう。

 

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原因は党錮の禁にあった

三国志大学

 

冀州刺史(きしゅうしし)の王芬のような地方官のトップが主体となったクーデター計画ですが、裴松之(はいしょうし)武帝紀(ぶていき)を補った司馬彪(しばひょう)九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)によると、クーデター計画には陳蕃(ちんはん)の子の陳逸(ちんいつ)と方術士平原の襄楷(じょかい)が加わっていた事が記されています。

 

陳蕃とは、清流派官僚で宦官の粛正に執念を燃やした人物でしたが、後ろ盾の外戚竇武(とうぶ)が中常侍に先手を打たれ滅ぼされた事で勢力を失い捕らえられ獄死していました。陳逸はその遺児で、宦官の言いなりになって父を見殺しにした霊帝を廃し合肥侯を擁立し、中常侍の後ろ楯を無くしてから皆殺しにしようと考えていたようです。

 

襄楷は占いで宦官に不利な運勢が出ていると宣言し陳逸を喜ばせていますが、占いで盛り上がっている時点で前途不安な感じです。

 

覇を競う乱世に新たな秩序を打ち立てた曹操の生涯
曹操孟徳

 

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曹操にも誘いがかかるが・・・

困る曹操の表情

 

冀州刺史の王芬は、沛国の周旌を仲介して曹操にクーデター計画に乗るように打診します。

 

1度もミスをしなかった有能な宦官・曹騰

 

曹操は祖父が宦官なので、この誘いはオカシイような感じもしますが、曹操自身は清流派官僚で、宦官の専横に憤っていたので、王芬の誘いはピント外れではありませんでした。ところが曹操は王芬の誘いを成功しそうにないと拒絶したのです。

 

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曹操激白!クーデター失敗の理由

 

では、どうして曹操は王芬のクーデターの誘いを拒絶したのでしょうか?

外ならぬ曹操の言葉が武帝紀に残っているのでかいつまんで解説しましょう。

 

「そもそも帝を廃位しようというのは世間が最悪と考える出来事だ。歴史上廃位を成功させたのは、商王朝の宰相伊尹(いいん)、大将軍霍光(かくこう)の2名に過ぎない。

 

 

しかも、両者とも十分な権力を持ち、謙虚で信用が厚く賛同する有能な仲間も多かった。また霍光のケースでは王が即位して日が浅く、有力な取り巻きもなく宮廷に諫臣(かんしん)も少なく、全ては内側の話し合いだけで決まり、速やかに決行して成功したのだ。

 

霍光

 

それを王芬共は、伊尹や霍光の上手くいった部分だけを見て、そこまでに積み上げた根回しや苦労を知ろうとしない。計画は最悪の事態を想定しなければならないのに、前例の上手くいった要因だけを見て軽率に計画を立てても成功するものか!」

 

このように曹操は、クーデターそのものには反対ではありませんでしたが、やり方がマズく成功するまいとして協力を拒否したのです。

 

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