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羅貫中最大のミス?関羽の五関六将破りに潜む矛盾

2021年3月18日


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羅貫中のミス(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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関羽と曹操が別れた覇陵橋の真実

関羽が大好きすぎる曹操

 

五関破りに関連する旧跡の中には、曹操が関羽に餞別を送った「覇陵橋(はりょうきょう)」があります。現在、この橋は許昌市郊外にあり、三国志ゆかりの地となっていますが、実は後漢時代にこの橋は存在していませんでした。

 

もともとは長安の東側にあった橋で、宋代に詠まれた「朝中措・襄陽古道覇陵橋」「少年遊・参差煙樹覇陵橋」などの詩の注釈に覇陵橋の所在が記載されています。

 

恐らくこの時期に覇陵橋を題材とした関羽の物語が誕生し、そこから曹操は長安を居城としていたという話が生まれたのではないでしょうか。また、許昌郊外にある覇陵橋は、もともと許昌から八里の位置にあったために八里橋(はちりはし)と名付けられた橋が架かっていました。

 

それを明代末期に左良玉(さりょうぎょく)という将軍が覇陵橋にしたと言います。理由は八里(ばーりー)と覇(ばーりんの発音が似ていること、そして許昌の近くであったことから故事の再現のために利用されたようです。このように現存する旧跡は後年になって作られたものがあるので、東嶺関も同様である可能性があります。

 

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三国志ライターTKのひとりごと

 

三国志演義と同時期に編纂された封神演義にも黄飛虎(こうひこ)が五関を破るエピソードが出てくることからも、この時期に五関を破るという物語が出来た、あるいは流行った可能性があります。

 

羅貫中と関羽

 

もともと宋、元代に作られた物語には、「関羽が曹操の元を離れる話」と「関羽が蔡陽(さいよう)を殺す話」がいくつか描かれていますが、五関破りはその間を補填する話です。羅貫中は当時キャッチーだった物語を盛り込むことに必至になりすぎて、そこで発生する大きな矛盾に気づかなかったのではないでしょうか。

 

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民間伝承の三国志

 

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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