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関羽と曹操が別れた覇陵橋の真実
五関破りに関連する旧跡の中には、曹操が関羽に餞別を送った「覇陵橋」があります。現在、この橋は許昌市郊外にあり、三国志ゆかりの地となっていますが、実は後漢時代にこの橋は存在していませんでした。
もともとは長安の東側にあった橋で、宋代に詠まれた「朝中措・襄陽古道覇陵橋」「少年遊・参差煙樹覇陵橋」などの詩の注釈に覇陵橋の所在が記載されています。
恐らくこの時期に覇陵橋を題材とした関羽の物語が誕生し、そこから曹操は長安を居城としていたという話が生まれたのではないでしょうか。また、許昌郊外にある覇陵橋は、もともと許昌から八里の位置にあったために八里橋と名付けられた橋が架かっていました。
それを明代末期に左良玉という将軍が覇陵橋にしたと言います。理由は八里と覇陵の発音が似ていること、そして許昌の近くであったことから故事の再現のために利用されたようです。このように現存する旧跡は後年になって作られたものがあるので、東嶺関も同様である可能性があります。
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三国志ライターTKのひとりごと
三国志演義と同時期に編纂された封神演義にも黄飛虎が五関を破るエピソードが出てくることからも、この時期に五関を破るという物語が出来た、あるいは流行った可能性があります。
もともと宋、元代に作られた物語には、「関羽が曹操の元を離れる話」と「関羽が蔡陽を殺す話」がいくつか描かれていますが、五関破りはその間を補填する話です。羅貫中は当時キャッチーだった物語を盛り込むことに必至になりすぎて、そこで発生する大きな矛盾に気づかなかったのではないでしょうか。
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