赤兎馬はどうして名馬?呂布の相棒の嘘のようなホントの話

2019年2月11日


 

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赤兎馬

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

人中の呂布(りょふ)、馬中の赤兎(せきと)と呼ばれ、呂布の武力(ぶりょく)を補完する存在だった赤兎馬(せきとば)

あまりにハマり過ぎた存在の為に、赤兎馬(せきとば)は実際には存在しないフィクションの存在だと思う人もいるかも知れません。

しかし、事実は小説より奇なり、赤兎馬は三国志演義(さんごくしえんぎ)のような虚構(きょこう)を交えた本だけでなく、後漢書(ごかんしょ)正史三国志(せいしさんごくし)にもちゃんと登場するのです。

今回は、史実に登場する赤兎馬を通して、どうして赤兎馬が名馬と呼ばれるのか?

この秘密を解き明かそうと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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赤兎馬の持ち主は董卓ではなかった

赤兎馬を可愛がる董卓

 

三国志演義では元は董卓(とうたく)が保有していて、呂布を丁原(ていげん)から寝返らせる為に与えた赤兎馬。

しかし、正史三国志では董卓により赤兎馬が呂布に与えられたという記述はありません。

名馬に目がなかった呂布が赤兎馬に目が眩んで養父の丁原を殺したというのは、三国志演義の脚色の一つなのです。

 

では、赤兎馬が登場するのはいつかと言うと呂布が董卓を暗殺して後

李傕(りかく)郭汜(かくし)の軍勢により長安を追われて、袁紹の下に転がり込んでいた時です。

 

この頃、袁紹(えんしょう)は、張燕(ちょうえん)という男が首領を務める黒山賊(こくざんぞく)という百万を号する山賊集団の略奪に悩まされていました。

百万と言うのはオーバーですが、黒山賊はそれでも歩兵を万人、騎兵を数千保有していたのでケチな山賊ではなく十分な脅威である事は明らかでした。

 

天下無双の呂布が転がり込んできた袁紹は、ナイスアイデアを閃き「居候(いそうろう)させてやるから力を貸してくれ」と呂布に黒山賊の討伐を持ち掛けます。

呂布は「お安い御用だ」と引き受けて部下の魏越(ぎえつ)成廉(せいれん)を率いて黒山賊討伐に向かうのですが、ここで初めて登場するのが赤兎馬なのです。

 

 

 

塹壕を飛び越え戦場を駆ける軍馬赤兎馬

赤兎馬にまたがる呂布

 

布有良馬曰赤兔(呂布は良馬を有していた名前を赤兎と言う)

 

正史三国志には、このように記録され、また、赤兎馬の戦いぶりは、後漢書に以下のように記述されています。

 

布常御良馬 號曰赤兔 能馳城飛塹

 

翻訳:呂布は常に良馬を置いていた、名前を赤兎と言うよく駆け、城の塹壕を飛び越えた

 

このように赤兎馬は、ただ駆けるのが速いだけではなく城内の塹壕(ざんごう)を飛びこえ障害物を回避できる特殊な訓練を受けた馬だったのです。

ただ名馬というだけでなく戦争に特化した軍馬として調教された赤兎馬は、持ち主である呂布が武力を振うのに絶大なサポートをしていました。

 

呂布は赤兎馬に乗って黒山賊に突撃を繰り返し、城があってもガードできない黒山賊は、恐れをなしてとうとうバラバラに逃げ散ってしまいます。

勢力では黄巾賊を超えると言われた黒山賊を破った事で、呂布と赤兎馬は、「人中の呂布、馬中の赤兎」と称えられ(曹瞞伝(そうまんでん))名前が

天下に轟いたのです

 

赤兎馬は、ただ生まれつき足が速いだけでなく、塹壕を飛び越えるなど人馬一体の訓練を受けていた軍馬だったので名馬とされたのです。

 

呂布は、こうして大いに袁紹に恩を売ったものの、調子に乗って袁紹の領内で略奪などをやらかした為に袁紹に疎まれていき、

結局、危険を感じて部下と共に逃げ出しています。

 

その後も呂布は、様々な群雄を頼り、最期に徐州牧だった劉備(りゅうび)の下に転がり込み隙をついて劉備から独立して徐州を支配下に置きます。

ですが、それも長い間は続かず、最後には曹操(そうそう)によって水攻めを受けて降伏。

命運は尽きて処刑されました。

 

 

正史には、関羽が赤兎馬に乗った記録はない

関羽に見惚れる赤兎馬

 

その後、赤兎馬は曹操に降伏した呂布から、関羽(かんう)に持ち主を代えます。

関羽は赤兎馬に跨り、曹操の下から劉備の所へ立ち去るのですが、曹操から通行手形を貰うのを忘れ、立ち寄る関所、関所で関羽を捕えようとする

魏将と大立ち回りを演じ、魏の五将をことごとく切り倒して逃げていきます。

こちらが関羽千里行と呼ばれる五関破りのシーンであり、三国志演義でも特に人気が高い名シーンになっています。

 

しかし、これは三国志演義のフィクションであり、正史には関羽が赤兎馬に乗っていたというような記述は出てきません。

もちろん、関羽の死後に赤兎馬が餌を食べなくなり衰弱死したというのも後世のフィクションなのです。

 

一体、本当の赤兎馬はどうなったのでしょう?

ここからは、推測でしかありませんが、赤兎馬は呂布と戦い続ける途中で傷を負い戦場に倒れたか、或いは寿命や病気により、

亡くなってしまったのかも知れません。

もし、そうでなくて生きて曹操の手に入ったなら、ちゃんと史書の記録にも呂布から曹操の手に渡ったと記述されそうなものだからです。

   

 

多く名馬がある中、赤兎馬が記録に残った理由は

赤兎馬と呂布

 

ただ、三国志の世界に名馬が赤兎馬だけだったとは思えません。

騎馬の術を得意とした武将は、それこそ若い頃の董卓や馬騰(ばとう)馬超(ばちょう)など、関中の軍閥たちにも大勢いたと思われるからです。

彼らの乗る名馬も、やはり戦闘用に訓練されていた筈で、或いは、呂布の赤兎馬よりも有能な名馬だったかも知れません。

 

では、どうして赤兎馬以外の名馬が史書には残らなかったのでしょうか?

それは、恐らく、彼らの飼い主の知名度が呂布には勝らなかったからではないでしょうか?

 

実は、曹操の騎乗した馬も「絶影(ぜつえい)」と称されて武帝紀の引く魏書に登場します。

影を留めない程に速いとされていますが、登場の時はいささか情けなく曹操が未亡人鄒氏(すうし)に入れあげて張繍(ちょうしゅう)に叛かれ、

着の身着のままで、命からがら宛城から逃げた時に曹操が(またが)っていました。

しかも俊足の設定のハズが流れ矢で頬と脚を傷つけています。

事態の流れを見ると、絶影は元々、曹操を逃がす為に馬を貸した曹操の嫡男、曹昴(そうこう)の馬であったようです。

 

もう一人、三国志演義の主人公、劉備も凶馬と呼ばれた的盧(てきろ)という馬で危機一髪の所を乗り越えた事が三国志蜀書先主伝に出てきます。

 

これから見ると、名前が史書に記録される名馬は、馬の能力+馬の持ち主の知名度の相乗効果が関係しているようです。

馬だけ名馬でも、知名度が高くない武将が乗っていたら、やはり特段記す必要がない事として歴史の闇に消えて行ったかもしれません。

意地悪な言い方ですが、赤兎馬の持ち主が呂布じゃなかったら、赤兎馬の名前も史書に残る事はなかったのではないでしょうか?

 

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感謝している曹操

 

お知らせ:「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナル記事は、今回を持ちまして終了させて頂きます。

長い間、御愛顧頂き、誠に有難う御座いました。

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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