三国志の主人公の1人である劉備。そんな劉備は青年時代、親戚に学費の援助を受けながら、あまり勉強せずドッグレースや乗馬に興じ、いつも美しく着飾り音楽を愛好していたと言われます。
こんな調子なので劉備は勉強嫌いとされがちですが、果たして理由はそれだけなのでしょうか?
この記事の目次
劉備が勉強しなかった理由はズバリ
では、ここで記事を最後まで読む時間がない方の為にザックリとネタばらしをします。劉備が勉強をしなかった理由とは
1 | 劉備は洛陽に近い緱氏にあった盧植の塾に通っていた |
2 | その頃朝廷で宦官が主導する「党錮の禁」が勃発。太学生や清流派儒教官僚が多数検挙追放された |
3 | 朝廷は宦官と宦官に癒着した濁流派官僚に占められ若い豪族の子弟の出世の道が閉ざされた。 |
4 | 劉備は学問で出世する道を断たれ享楽に溺れるようになった |
5 | 享楽の中で培ったアウトロー人脈が義勇兵挙兵の時に役立ち、出世の糸口になる |
このように劉備の青春時代には、党錮の禁により豪族の子弟は登用の道を断たれてしまい、学問へのモチベーションが保ちにくい時代でした。しかし、ここで劉備が学問をあきらめ人脈などのコネ作りにシフトした事が、黄巾の乱では素早く私兵を集め義勇兵として挙兵する元手になるのです。
以下では、さらに詳しく記事について解説します。
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真面目に学問で身を立てようとしていた劉備
劉備は黄巾賊討伐辺りから傭兵隊長ですが、それ以前には豪族の子弟らしく学問をして孝廉に挙げられ儒教官僚としてデビューしようと考えた節があります。父が早くに亡くなり、母子家庭だった劉備の家ですが、親族に理解がある人物がいて、劉備に十分な学費を与え自分の息子と共に進学させました。
当時は洛陽の太学に入るか、高名な学者の弟子として私塾で学ぶかが出世の近道でしたが、劉備は同郷出身の大学者、盧植の門下生になる道を選びます。
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■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
党錮の禁で学問の道が断たれる
劉備が盧植の塾に入ったのは、西暦175年頃で劉備は数え年16歳位でした。この時、盧植の門下生に公孫瓚もいて、劉備は公孫瓚とも交流を持ちます。しかしこの西暦175年、永昌郡の太守だった曹鸞が霊帝に対し、儒教官僚や太学生の禁を解いて採用するように意見を上申。
これに宦官&濁流派が敏感に反応、霊帝に色々吹きこんだので霊帝は激怒。逆に党錮の範囲を清流派官僚の一族や門下生にまで拡大し検挙しました。盧植の私塾がある緱氏は洛陽に近く、劉備は検挙される清流派官僚や門下生を目撃できたのでしょう。そして、党錮の禁が解かれない限りは学問しても出世には結びつかないと感じたのです。
劉備は学者になりたいわけではないので、学問は第一に出世の手段です。その学問が災いを呼び込むとすれば、劉備が学ぶ事を挫折するのは無理からぬ事でした。
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怪我の功名
しかし劉備が一度学問への情熱を失い、ドッグレースや乗馬にのめり込み市井のアウトローと付き合うようになったのは劉備の人生にはプラスになります。党錮の禁は184年の黄巾の乱勃発で、あっさりと解除され、清流派官僚は現場に復帰しますが、この時出世に必要だったのは学問だけでなく黄巾賊を退治する武力を持つ人材でした。
ここで、勉強そっちのけで市井のアウトローと交わり、その剛毅な性格から親分と慕われていた劉備は、故郷に帰り乱世に一旗揚げようとする連中を集めて義勇兵を組織し、黄巾賊との戦いに従軍していく地盤を築けたのです。
無位・無官な落第生だった劉備は、黄巾討伐や張純の乱平定で功績を立て、中山国安熹県の尉や北海国下密県の丞、平原郡高唐県の令等役職を歴任していきました。
劉備の祖父劉雄は、兗州東郡范県令に昇進してキャリアを終えているので高唐県令になった劉備は若くして祖父と同じポストを経験した事になります。後に皇帝になる劉備なので、県令は大したポストではないように見えますが、なかなかどうして、祖父を越えるスピード出世であり勉強を放棄した劉備としては上出来でしょう。
もし劉備が学問好きでコネ作りではなく学問を優先していたなら、黄巾の騒乱に遭遇しても、私兵を集める事が出来ず、頭角を現す事もなかったかも知れません。
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