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この記事の目次
盧植への師事が三顧の礼の伏線に
劉備のようなアウトローに顔が効く任侠あがりの傭兵隊長は、群雄割拠の当時、掃いて捨てる程存在していたでしょう。そんな傭兵隊長の中で、劉備が生き残れたのは、劉備がただのヤクザの親分ではなく、天下の大学者盧植に師事し名士との付き合い方を知っていたからだと考えられます。いかに勉強をしなくても、社交の上で必要な儀礼を劉備は盧植から言葉で、或いは無言の間に教わっていた事でしょう。
そして、その教養が孔融のような名士によって徐州牧に推挙されたり、陳羣を一時的ながら配下にしたり、諸葛亮を三顧の礼で配下に加えるなど、ただの粗野な傭兵隊長では出来ない能力を劉備に与えたと考えられるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
人間の経験に無駄な事はないと言いますが、劉備はその手本のような人生ですね。盧植門下で学問し後漢王朝の役人となり昇進を重ねようと思っていても、党錮の禁で望みが断たれる。しかし勉強を捨て、丹念に培ったアウトロー人脈が黄巾の乱での義勇兵募集に役立ち、手柄を立てて祖父と同じ県令までになったんですからね。
劉備の生き方や考え方は、私達にも大いに参考になるのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志
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