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馬謖の山登りは王平が原因だった!陳寿が隠した真実?

2021年3月27日


はじめての三国志_ページネーション

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馬謖の山登り(1P目)

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陳寿の曲筆が馬謖を追い落とす

正史三国志を執筆する陳寿

 

 

さて、これだけであれば、街亭の敗戦の責任が馬謖だけに由来するのではなく、街亭周辺の異民族や板楯蛮の取り込みに失敗した諸葛亮や蜀首脳部の責任でもあるとも言えます。しかし、それでは困る人物がいました。

 

父親が王平と同じく巴西の出身だった歴史家陳寿です。馬謖の副官には、王平と名前が伝わらない陳寿の父がいましたが、王平とは対照的に陳寿の父は?刑に処され髪を剃られていました。

 

 

弩(ど)を発射させる蜀兵士達

 

 

つまり陳寿の父は、馬謖同様に板楯蛮の寝返りを疑い、戦いもせずに敗走した幕僚だったのではないかと推測されます。

 

そして陳寿としては父の不名誉を記録する事が出来ず、筆を曲げ板楯蛮の動向を一切書かず、全責任を「登山して水を断たれたアホな馬謖」に押し付けたのではないでしょうか?

 

関連記事:不遇なんてウソ!陳寿の悲劇の歴史家像は捏造だった?

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

 

第一次北伐では諸葛亮は扇動と敵勢力の離反に重きを置いています。孟達(もうたつ)に寝返るように促したり、天水、南安、安定の住民が蜀に呼応して太守が逃げ出すなど、その計略はズバズバ的中していました。

 

 

夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

 

それだけに諸葛孔明は、街亭周辺も王平が上手くやって板楯蛮を味方につけてくれると考えていたのかも知れません。しかし、終わってみれば王平の工作は成功せず、逆に魏の張郃の出撃で馬謖が疑心暗鬼に陥り、王平を退けて登山してしまうという逆の結果を生んでしまったのです。

 

 

犬猫に襲われる孔明

 

 

この辺り孔明(こうめい)は「策士策に溺れる」を実践してしまったのではないかとkawausoは思います。

 

参考:曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」並木淳哉 駒沢史学87号( 2016)PDF

 

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馬謖

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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