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陳寿の曲筆が馬謖を追い落とす
さて、これだけであれば、街亭の敗戦の責任が馬謖だけに由来するのではなく、街亭周辺の異民族や板楯蛮の取り込みに失敗した諸葛亮や蜀首脳部の責任でもあるとも言えます。しかし、それでは困る人物がいました。
父親が王平と同じく巴西の出身だった歴史家陳寿です。馬謖の副官には、王平と名前が伝わらない陳寿の父がいましたが、王平とは対照的に陳寿の父は?刑に処され髪を剃られていました。
つまり陳寿の父は、馬謖同様に板楯蛮の寝返りを疑い、戦いもせずに敗走した幕僚だったのではないかと推測されます。
そして陳寿としては父の不名誉を記録する事が出来ず、筆を曲げ板楯蛮の動向を一切書かず、全責任を「登山して水を断たれたアホな馬謖」に押し付けたのではないでしょうか?
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三国志ライターkawausoの独り言
第一次北伐では諸葛亮は扇動と敵勢力の離反に重きを置いています。孟達に寝返るように促したり、天水、南安、安定の住民が蜀に呼応して太守が逃げ出すなど、その計略はズバズバ的中していました。
それだけに諸葛孔明は、街亭周辺も王平が上手くやって板楯蛮を味方につけてくれると考えていたのかも知れません。しかし、終わってみれば王平の工作は成功せず、逆に魏の張郃の出撃で馬謖が疑心暗鬼に陥り、王平を退けて登山してしまうという逆の結果を生んでしまったのです。
この辺り孔明は「策士策に溺れる」を実践してしまったのではないかとkawausoは思います。
参考:曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」並木淳哉 駒沢史学87号( 2016)PDF
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