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この記事の目次
鍾会の野望を後押し
姜維は鍾会の野望を利用し、蜀にいる魏の将軍を皆殺しにした後で鍾会も殺して蜀の復興を考えていました。しかし、その為には鍾会の口から自分は蜀で独立するつもりだという確証を得ないといけません。
漢晋春秋によると、姜維は鍾会に面会に行きこう切り出したそうです。
「聞いた話だが、君は淮南より以来、計略を立てて失敗した事はないと聞く。
晋がここまで大きくなったのは、全て君の手柄なのだろう。
その上君は、蜀まで平定し名声は天下に満ちて、民衆も君の功績の高さを認めている。
だが、その為に帝は君の謀を恐れ危険視している。
この状態で帰還して、君は安全を全うできるだろうか?
三傑の韓信は、戦乱の中で大功を立てたのに漢を信じて叛かず、その為に不用になった猟犬同様、煮殺される運命を免れなかった。
また越王句践に仕えた名臣文種は、隠居せよという同僚范蠡のアドバイスを聞かず、ついに句践により自害に追い込まれた。
これは、劉邦や句践が暗君であり、韓信や文種が愚かだったからではない。利害の変化が招いた悲劇だったのだ。
今、君は大きな功績を立て、その徳は天下に知れ渡っているのに、どうして范蠡のように役人をやめて遠くへ隠居したり、赤松子のように仙人となり身を安楽に終えようとしないのか?」
さすがにダイレクトに謀反するの?しないの?とは聞けないので、そろそろ隠居して身の安全を図れば?と姜維は探りを入れてみたのです。
それに対し鍾会は
「君の言葉は有難いが、あまりに悠遠で僕のような凡人には到底行えないよ。
それに、君は隠居か誅殺かの二者択一のように言ったが、僕が密かに思うに、道はこの2つ以外にないわけでもない…」
と答えました。
第三の道とは謀反しかありえない、そう考えた姜維は
「第三の道は、君の智力の為せる技のようだ。僕のような老いぼれを煩わせる事はなさそうだね」
このように返答し、以後はお互いに考えている事が同じだと感じ、親しく付き合うようになったそうです。
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衛瓘の軍勢に鍾会共々殺害される
鍾会は監査の衛瓘と謀り独断専行が多い鄧艾が独立を企んでいるとして司馬昭に上奏し、驚いた司馬昭は鄧艾の逮捕を命じます。
こうして鄧艾を排除した鍾会は成都に入ると、魏の将官を全員集めて一カ所に閉じ込めて兵権を取り上げ自ら州牧を名乗り反旗を翻しました。
鍾会は、鄧艾排斥に協力した衛瓘も自分の独立に賛成してくれていると何の根拠もなく信じていたようで、計画を打ち明け仲間に入るように誘います。
ところが衛瓘は鍾会の反乱に巻き込まれる事を恐れ、仲間になったふりをして消極的に行動しつつ、成都城の外に待機している魏の三軍に、「鍾会が謀反を企んでいる、反乱が成功すれば鍾会は蜀兵を重用して魏兵は皆殺しにされるだろう」と手紙を出して鍾会討伐の準備を命じました。
そして、衛瓘は仮病を使って重病に見せかけ鍾会の警戒心を解き、成都城から脱出すると、軍営に戻って兵士を集め、檄を作成して「鍾会を討て」と命じ成都城に攻め込みます。自分で兵を動かした事がない鍾会は、壁をよじのぼりなだれ込んでくる魏兵に仰天。
「どどどどどど!!どうしよう、助けてキョウエもーん!」と傍らの姜維に助けを求めます。
「どうするって!戦うしかないだろう」
この辺りは、さすがに姜維は腹が据わっていて、役立たずの鍾会を置いて、僅かな手勢で奮闘しますが、多勢に無勢でまもなく魏兵に斬り刻まれて絶命しました。
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まとめ
正史三国志、姜維伝に付属する華陽国志によると、姜維は鍾会に魏の将を皆殺しにするようにアドバイスし、その後、孤立した鍾会を殺し蜀を復興させようと考えていたようで、劉禅にも
「数日の辛抱です、まもなく蜀の社稷を復活させて御覧にいれます」と手紙を出していたそうです。
こうして見ると姜維には、鍾会と共に蜀の支配者になるつもりは微塵もなく、あくまでも蜀復活の為に鍾会を利用していたらしい事が窺えます。
しかし、人を見る目がザルな鍾会が衛瓘を信用して叛かれてしまう所までは、さすがの姜維も見抜く事が出来なかったようですね。
参考文献:正史三国志 姜維伝
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