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姜維とはどんな人?鍾会の乱を利用し蜀復興を目論んだ忠臣

2021年4月14日


 

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孔明と姜維

 

姜維(きょうい)は元、魏の部将でしたが、諸葛亮(しょかつりょう)の計略で疑心暗鬼(ぎしんあんき)になった上司に疑われて城に入れてもらえず、やむなく蜀に降伏し孔明(こうめい)にその能力を認められました。

 

過労死する諸葛孔明

 

五丈原(ごじょうげん)で孔明が死去した後、蜀政権で着実にのし上がった姜維ですが、度重なる北伐の失敗により蜀の勢力を弱体化させ、結果として魏の鍾会(しょうかい)による蜀への侵攻を招きます。

 

野望が膨らむ鍾会

 

ところが、ここから姜維は王になりたいと考える鍾会の野心を見抜き、蜀の復興を目論(もくろ)み「鍾会の乱」に協力しますが、願いは叶わず無念の最後を迎える事になりました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魏の部将から北伐の後継者へ

姜維の心中

 

姜維は涼州(りょうしゅう)天水郡翼県(きけん)の人です。天水の名族でしたが若くして父姜冏(きょうけい)を失い母と同居し郡に仕えて上計掾(じょうけいえん)となり、州に(へき)されて従事になりました。亡き父は若い頃に(きょう)や戎の反乱に遭遇し太守を護衛して戦死したので、その功績で姜維には中郎の官が与えられ郡の軍事に参加してます。

 

北伐する孔明

 

しかし、西暦228年蜀の丞相諸葛亮が北伐の軍を起こして祁山(きざん)に向かった時の事。天水太守馬遵(ばじゅん)は、たまたま巡察に出ていて姜維、梁緒(りょうちょ)尹賞(いんしょう)梁虔(りょうけん)を従えていました。

洛陽城

 

ところが、天水郡の住民が蜀軍に続々と寝返ったと知るとこの太守、随行している姜維達も蜀軍に通じているんじゃね?と疑心暗鬼になり夜中に姜維等を放り出して逃亡。上邽(じょうけい)城に入って城門を固く閉じてしまいます。

 

姜維

 

太守の逃亡に気が付いた姜維たちは、あわてて追い駆けて城門を開けてくれるよう願いますが、太守は門を固く閉ざして入れませんでした。次に冀城(きじょう)を尋ねた姜維たちですが、ここでも城門を開けてもらえず身の置き所がなくなって、蜀軍に降伏する事になったのです。

 

姜維と孔明

 

こうして蜀に降った姜維の軍事の才能を孔明は賞賛し、以後は諸葛亮の幕僚(ばくりょう)として北伐に付き従い、五丈原で孔明が没した後は、蒋琬(しょうえん)(と共にその後継者として蜀を支える形になりました。

 

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段谷で大敗し蜀征伐の切っ掛けを作る

費禕

 

諸葛亮の死後、姜維は軍事キャリアを積み重ねていき、243年には鎮西大将軍兼涼州刺史(ちんぜいだいしょうぐん・けん・りょうしゅうしし)、西暦247年には衛将軍となり、蒋琬死後には費禕(ひい)と共に蜀の軍事を引っ張っていく事になります。

 

費禕の宴会に呼ばれて毒を塗った刀で暗殺に成功した郭修(かくしゅう)

 

そして西暦253年、北伐に消極的な費禕が魏の投降者に暗殺されると姜維は軍権のフリーハンドを与えられ本格的な北伐を再開します。

 

姜維 VS 鄧艾

 

姜維は、一時的勝利は得たものの、256年の段谷の戦いで魏のトウ艾に作戦を読まれて散々に撃ち破られました。これにより蜀軍は北伐遂行能力を失い、姜維も無駄な遠征で人命と物資を損なったとして悪評を受けるようになります。

 

劉禅に気に入られる黄皓

 

同じ頃には宦官黄皓(こうこう)の専横も始まり、反姜維の世論も強固になり姜維は暗殺を恐れて成都に帰還せず沓中(とうちゅう)に留まりました。

 

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

段谷(だんこく)の敗戦で蜀の瀕死(ひんし)を確信した魏の司馬昭(しばしょう)は、263年鍾会や鄧艾(とうがい)に命じて蜀討伐の軍を起こします。

 

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姜維特集

 

剣閣に籠城

怪しい巫女のい占いを信じる黄皓

 

263年、姜維は鍾会の動きをキャッチ張翼(ちょうよく)廖化(りょうか)を派遣し陽安関口(ようあんかんこう)陰平橋頭(いんぺいきょうとう)を防御させるように上奏します。しかし劉禅(りゅうぜん)は黄皓の占いに従い、上奏を黙殺、群臣にも一切伝えませんでした。

 

黄皓

 

上奏を採用しないならまだしも、上奏があった事を群臣にも伝えないというのは、黄皓がすでに魏に寝返っていて、占いにかこつけ鍾会の蜀討伐をアシストしていたのでは?という疑惑を感じます。

 

さて、いよいよ鍾会が駱谷(らくこく)に向い鄧艾が沓中に入ったと伝令が飛び込みます。劉禅は慌てて廖化(りょうか)を沓中に派遣し姜維の援軍とし、さらに張翼と董厥(とうけつ)を陽安関口に移動させ姜維を援軍しようとしますが、陰平に至った頃、魏の諸葛緒が建威に向ったと聞き待機。1ヶ月あまりの後、姜維は鄧艾に進路を塞がれ陰平で対峙する事になります。

 

姜維と鄧艾

 

鍾会は漢と楽の二城を包囲し、別将を派遣して陽安関口に侵攻させました。漢城を守る蒋舒(しょうじょ)は出撃して敗れて降伏、城内に残っていた傅僉(ふせん)は奮戦して討死。漢城は陥落します。楽城は、なおも抵抗しますが、陽安関口が陥落したので鍾会はそのまま前進しました。

 

姜維

 

陰平で鄧艾と対決していた姜維も陽安関口が陥落したと知り後退を開始し、背後を抑えようとする諸葛緒を上手くかわし退却に成功。その途中、同じく陽安関口が陥落したと知り進軍を断念した張翼、董厥と合流し天然の要害、剣閣(けんかく)に立て()もります。

 

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鄧艾の奇策で劉禅降伏

鍾会

 

剣閣は容易に陥落せず、鍾会は姜維に手紙を送り、

 

「姜将軍の名声は天下に轟いていて、魏でもその名を知らないものはいません。思えば、あなたも元々は魏将であり同僚同士、古の呉札・鄭喬(ていきょう)の友情にも(たと)えられましょうか?」

 

このように姜維の身の安全を保障し懐柔(かいじゅう)しようとしますが姜維は返事を出さずに剣閣に籠り続けます。飽きっぽい鍾会は、早々と諦め退却を考えますが、ここで待ったをかけたのが姜維と何度も矛を交えた鄧艾でした。

 

鄧艾(トウ艾)と一緒に木を切り蜀に前進する鄧忠(トウ忠)

 

ザックリ言えば、剣閣を迂回して、断崖絶壁を道を造りながら進み、成都の近くまで探検しようというプラン名付けて

 

”火曜スペシャル!鄧艾探検隊 蜀の秘境に漢の帝都(エルドラド)を見た!”の企画をプレゼンします。

鍾会は「僕の軍は貸さないが手持ちの兵でやるなら勝手にどうぞ」と許可を出しました。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

鄧艾は若い頃から地形に関心がある地形マニアだったので、苦しい行軍を耐え抜き、綿竹(めんちく)で、孔明の遺児、諸葛瞻(しょかつせん)を破り戦死させます。突然に出現した鄧艾軍に成都はパニックになり劉禅は降伏。

 

剣閣に籠っていた姜維達はハシゴを外された形で敗北の将となってしまうのでした。

 

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鍾会の謀反心を読み取る

降参する姜維

 

屈辱に塗れ、刀を岩に叩きつけて蜀の滅亡を悲しんだ姜維達ですが、反逆者として死ぬという悲劇の運命が待っているかと思えば、その後の展開は意外でした。

 

司馬昭

 

司馬昭は残った最後の1国である孫呉を戦わずに降伏させる事を目指しており、蜀に対して厳しい措置を取らない事を決めていたのです。

 

蜀を滅ぼし己の功を自慢しはじめる鄧艾(トウ艾)

 

成都に入った鄧艾は劉禅や重臣たちを助命したばかりか、略奪も厳禁とし、仮の措置とはいえ奉還した印綬や、(せつ)(がい)を還し今まで通りの生活を保障しました。さらに姜維に蜀復活のチャンスを自覚させたのは鍾会の姜維を下にも置かない歓待ぶりでした。

 

自分は天才肌だと勘違いする鍾会

 

「いやー!伯約(はくやく)ちゃん元気ィー!士季わァ…元気ぶりぶりざえもーん!

ところでさァ、今日蜀のセレブ連中とパーティーするんだけどォ伯約ちゃん、一緒にいかなーい?」

 

鍾会は姜維を同じ輿(こし)に乗せ、宴会があれば同席し長史の杜預(とよ)には手紙で「伯約の才能は魏で比較すれば諸葛誕や夏侯玄だって及ばないyo!」とベタ褒めするほどに見込んでいました。

 

すぐに戦争したがる姜維

 

これは姜維が涼州の名族であり、鍾会も名門同士で気が合ったという事以外に、鍾会が蜀で独立するのに、大将軍として軍を率いていた姜維の力が必要という理由がありました。姜維をおだてて誉めそやし、自分の野望に上手く使おうと考えたのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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