太宗とは、唐王朝の2代目皇帝で李世民とも呼ばれます。唐の初代皇帝李淵の次男として生まれ、隋の末期に父と太原で挙兵し長安を都と定めて唐を建国しました。
李淵が初代皇帝に即位した後、太宗は反対勢力を平定していきますが、兄で皇太子の李建成と対立するようになり、626年玄武門の変でクーデターを起こして兄と弟を殺害します。
即位後の太宗の政治は「貞観の治」と称えられ長く名君としてアジア世界でお手本とされました。今回は中華の理想的名君、太宗の生涯について解説します。
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4歳で天下人になると予言される
太宗李世民は、西暦598年武功県(中華人民共和国陝西省咸陽市)で誕生しました。彼の父の李淵は暴君として有名な煬帝の母方のいとこで、母は北周王朝の始祖、宇文泰の孫にあたる竇氏です。
簡単に言うとエリートの坊ちゃんですが、4歳の頃、名前不詳な書生が太宗の人相を見て、
「龍や鳳凰の姿を持ち、成人後は世の中を治めて民衆を安んじるだろう」と予言。
そのために諱が世民となったという胡散臭い自慢話が残っています。
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16歳にして暴君煬帝を救出
西暦615年、太宗が16歳の時の事です。暴君煬帝が、高句麗討伐に3度も失敗した挙句、雁門において騎馬民族の突厥に包囲されました。
困った煬帝は援軍を求め、褒美は望み通りに出すと言ったので、太宗は雲定興の下で従軍、煬帝救出に尽力します。しかし煬帝は救出されると恩賞の話を平気で反故にし諸侯の怒りを買う事になります。
また太宗は、父の李淵が魏刀児の包囲下に置かれた時も軽騎兵を率いて救援しています。伝承によると太宗は弓の名手であったそうで、騎兵を扱うと一流の才能があったようです。
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父や兄と共に挙兵し長安を制圧
西暦617年、煬帝に対する相次ぐ反乱に呼応して李淵も太原で兵を挙げ、太宗は右領軍大都督・敦煌郡公に任じられ長安に向けて進軍。長安には、代王楊侑が派遣した隋の虎牙郎将宋老生が2万の大軍で城に駐屯していました。
太宗は、李淵に
「宋老生は武勇だけの猪武者なので、こちらが挑発すれば必ず出撃してきます」と進言。
城の周辺に百騎余りを伏兵させ、自らは兄の李建成と共に、十騎あまりで出撃。
城に籠っている宋老生に対し、
「たった十騎を恐れ、城から出られぬ腰抜け将軍!」と悪口を言い続けます。
太宗の目論み通り、単細胞な宋老生は挑発に乗り出撃、伏兵に引っ掛かって敗れ長安を放棄して逃げていきました。
太宗は、長安を平定した功績で秦国公に封ぜられ西暦618年1月には右元帥となり、3月には趙国公に改封されます。まだ、満20歳にもならないのに次々と手柄を立てている所に、李淵の子である事を割り引いても太宗の軍事的な才能が見えます。
西暦618年5月、長安を都に唐が建国され、李淵が皇帝に即位し、長兄の李建成が皇太子になると太宗は秦王に封じられ、尚書令に任じられます。唐は建国したものの、周辺には唐朝を認めない勢力が存在していました。
そこで、太宗李世民は、各地を転戦、薛仁杲、劉武周、王世充、竇建徳、劉黒闥といった随末唐初に割拠した群雄を次々と平定し軍事的な才能を見せつけます。
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兄、李建成との対立が激化
621年、李淵は太宗の功績の高さから前代よりの官位では足りないとして、天策上将の称号を王公の上に設置して太宗に与えます。しかし、太宗の名声が高くなると皇太子の李建成は不安を覚え、李淵に訴えて太宗の軍師である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採り太宗を失脚させようとします。
さらに、建成の幕臣魏徴や弟の李元吉が世民暗殺を画策し、それを察知した太宗も警戒心を強め、両者の対立は激しさを増していきました。
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