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この記事の目次
玄武門の変で兄と弟を殺害
暗殺計画を知った太宗は、兄と弟の殺害を決意します。まず、讒言で遠ざけられた房玄齢と杜如晦を道士に変装させ自邸に呼び寄せ対策を協議。その結果、兄の部下で玄武門の守備隊長である常何を買収しました。
西暦626年6月4日、李建成は弟の李元吉と宮中に参内します。
警備兵を引き連れ、用心していた建成ですが、宮殿内部は限られた人数しか入ることが許されていなかったので、やむなく少数の供を引き連れて中に入りました。李建成が玄武門を通過すると、警備兵の常何らが一斉に一行に斬りかかります。
大混戦の中、建成の幕臣馮立と皇太子派李元吉の幕臣謝叔方が応戦、太宗の部下である呂衡の首を獲るなど奮戦しますが、その間に李建成と李元吉は殺害されてしまいました。
クーデターは成功し、政変を知った李淵は世民に譲位して太上皇帝となり、ここに2代皇帝太宗が即位します。
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寛大な処置をした太宗
権力闘争で即位した太宗ですが、即位すると建成の部下だった馮立と謝叔方の2人を取り立て、さらに自身の暗殺を計画していた魏徴を呼び出し諫議大夫に抜擢。寝所への出入りを許して政治顧問としました。
太宗は後継者争いを政治闘争とする事を嫌い、宗家の問題とし、処罰したのは兄建成と弟元吉の一族のみに留めます。こうして唐王朝は有能な人材を失う事なく、太宗の時代は繁栄する事になるのです。
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貞観の治の開始
即位し長孫氏を皇后に立てた太宗は、直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受けます。旧唐書などの史書によれば、激怒した太宗は僅か6騎を率いて渭水に布陣した突厥軍の前に立ち、突厥の協定違反を責め、恐れを為した突厥が退却したと記録されます。
しかし、いくら何でもそれは考えにくく、実際は太宗の後を追って大軍が来たために衝突を避けて撤退したとも、太宗が貢物を差し出し撤退を依頼したようです。
627年、太宗は元号を貞観とすると腹心の房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治改革に取り組み建成の幕下から魏徴を登用して厳しく諫言するように命じ、己を誡めていきます。太宗は45名もの重臣を見出し交代で宮殿に泊まり込ませ、膝を突き合わせ政治について対話を繰り返しました。
それ以外にも、賦役や刑罰の軽減、政治機構である三省六部制を整備し、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与え唐軍の軍事力を強化します。
一連の施策と質素倹約により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復、唐の国力は急速に高まりました。
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突厥を滅ぼし北方遊牧民の首領と中華皇帝を兼ねる
629年、充実した国力を背景に太宗は屈辱を受けた突厥討伐を実施します。李勣・李靖を将軍に登用して出兵し630年には突厥の頡利可汗を捕虜としました。
これにより突厥は崩壊、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることになります。族長たちは長安に集結し、太宗に天可汗の称号を奉上。天可汗とは、北方遊牧民族の君主である可汗より上位の君主を意味する称号で、唐朝の皇帝は中華世界の天子と北方遊牧民の首領の地位を兼ねる事になりました。
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玄奘を迎えて仏教を保護・各王朝の歴史書を編纂
文化面でも、それまでに纏められていた「晋書」「梁書」「陳書」「周書」「隋書」の正史を編纂させ、特に晋書の王羲之伝は、王羲之マニアである事を活かし太宗自らが注釈文を書いています。また645年には玄奘三蔵がインドより仏経典を持ち帰り、太宗は玄奘を支援して仏典の漢訳をさせ中国における仏教の興隆に貢献しました。
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実は癇癪持ちだった太宗
哲人皇帝として知られる太宗ですが、その素顔は生来の軍人で血の気が多く、大変な癇癪持ちであり、度々、怒鳴り声をあげて家臣に怒りをぶつける事がありました。
しかし、太宗の家臣たちは、太宗の性格を知っていて根気よく対応し、重臣で諫議大夫の魏徴に至っては、生涯に二百回もの諫言を行い太宗の短気を諫めたそうです。
君臣の麗しい友情の産物と美化されがちな太宗の「貞観の治」ですが、実際は今の組織と変わらず、時には怒鳴り合いや批判の応酬があって、その果てに堅い信頼関係が生まれたという事は、覚えておいた方がいいでしょう。
後にこの重臣との熱い対話集が「貞観政要」と呼ばれる本としてまとめられ、後世の君主や藩主、大名のような人の上に立つ人間の教科書となるのです。
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晩年の後継者問題
名君と謳われた太宗ですが、晩年には立太子問題が発生します。当初皇太子だったのは長子の李承乾でしたが、太宗は四男の魏王李泰を偏愛します。このことで、元々は聡明だった李承乾の精神が不安定になり遊興に溺れました。
太宗は賢臣を配置して素行を改めようとしますが、効果はなく最後は李泰を殺害しようとしたので、廃太子となり庶民に落とされ黔州に流されて亡くなります。一方で魏王李泰も自分の派閥を組んで李承乾と争います。そこで皇后の兄である長孫無忌は、どちらを立てても必ず内紛になるので、最も凡庸な九男の李治を皇太子として勧め、太宗も了承しました。
李治は、3代皇帝、高宗として即位しますが、病気がちな人物であり、自分を皇帝に立てた長孫無忌の操り人形となり、さらに皇后に迎えた武氏を抑える事も出来ず、外戚の長孫氏と皇后の武氏で勢力争いに発展、武皇后が勝利します。
以後、武皇后の子である中宗、睿宗が短期間即位しますが、どちらも武皇后に退けられ、やがて武皇后が即位して武則天として新しい王朝を開く事になりました。
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太宗はどんな人?のまとめ
太宗は玄武門の変というクーデターで即位した経緯から、何としても立派な政治をして、人心を集めないといけないという気持ちが強かったのだと思います。
その前の隋の煬帝が母方の親戚だった事もあり、自分の中にも暴君の血が眠っていると恐れて、絶えず賢臣を置いて諫言を聞き入れ身を律しようとしたのでしょう。
治世はほとんど上手くいった太宗ですが、後継者問題では息子達を分け隔てなく愛する事が出来ず、喧嘩両成敗的に2人の有力な後継者を処分した結果、凡庸で病弱な高宗を立てざるを得なくなり、外戚や皇后勢力の台頭を阻止できませんでした。それでも、太宗の築いた唐王朝の命脈は強く、曾孫の玄宗により武則天の後周が倒されて再び唐王朝が回復するのですから、やはり立派な人物だったと言えますね。
参考:Wikipedia
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