太宗とはどんな人?クーデターで即位した哲人皇帝(李世民)の生涯


 

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太宗

 

太宗(たいそう)とは、唐王朝の2代目皇帝で李世民(りせいみん)とも呼ばれます。唐の初代皇帝李淵(りえん)の次男として生まれ、隋の末期に父と太原(たいげん)で挙兵し長安を都と定めて唐を建国しました。

 

三国志のモブ 反乱

 

李淵が初代皇帝に即位した後、太宗は反対勢力を平定していきますが、兄で皇太子の李建成(りけんせい)と対立するようになり、626年玄武門(げんぶもん)の変でクーデターを起こして兄と弟を殺害します。

 

即位後の太宗の政治は「貞観(じょうがん)()」と称えられ長く名君としてアジア世界でお手本とされました。今回は中華の理想的名君、太宗の生涯について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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4歳で天下人になると予言される

洛陽城

 

太宗李世民は、西暦598年武功県(ぶこうけん)(中華人民共和国陝西省咸陽市(せんせいしょうかんようし))で誕生しました。彼の父の李淵は暴君として有名な煬帝(ようだい)の母方のいとこで、母は北周王朝の始祖、宇文泰(うぶんたい)の孫にあたる(とう)氏です。

 

簡単に言うとエリートの坊ちゃんですが、4歳の頃、名前不詳な書生が太宗の人相を見て、

「龍や鳳凰の姿を持ち、成人後は世の中を治めて民衆を安んじるだろう」と予言。

 

そのために(いみな)が世民となったという胡散臭い自慢話が残っています。

 

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16歳にして暴君煬帝を救出

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

西暦615年、太宗が16歳の時の事です。暴君煬帝が、高句麗(こうくり)討伐に3度も失敗した挙句、雁門(がんもん)において騎馬民族の突厥に包囲されました。

 

困った煬帝は援軍を求め、褒美は望み通りに出すと言ったので、太宗は雲定興の下で従軍、煬帝救出に尽力します。しかし煬帝は救出されると恩賞の話を平気で反故にし諸侯の怒りを買う事になります。

 

また太宗は、父の李淵が魏刀児(ぎとうじ)の包囲下に置かれた時も軽騎兵を率いて救援しています。伝承によると太宗は弓の名手であったそうで、騎兵を扱うと一流の才能があったようです。

 

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父や兄と共に挙兵し長安を制圧

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

西暦617年、煬帝に対する相次ぐ反乱に呼応して李淵も太原で兵を挙げ、太宗は右領軍大都督・敦煌(とんこう)郡公に任じられ長安に向けて進軍。長安には、代楊侑(ようゆう)が派遣した隋の虎牙郎将宋老生が2万の大軍で城に駐屯していました。

 

太宗は、李淵に

「宋老生は武勇だけの猪武者なので、こちらが挑発すれば必ず出撃してきます」と進言。

 

城の周辺に百騎余りを伏兵させ、自らは兄の李建成と共に、十騎あまりで出撃。

 

城に籠っている宋老生に対し、

「たった十騎を恐れ、城から出られぬ腰抜け将軍!」と悪口を言い続けます。

 

太宗の目論み通り、単細胞な宋老生は挑発に乗り出撃、伏兵に引っ掛かって敗れ長安を放棄して逃げていきました。

 

太宗は、長安を平定した功績で秦国公に封ぜられ西暦618年1月には右元帥となり、3月には趙国公に改封されます。まだ、満20歳にもならないのに次々と手柄を立てている所に、李淵の子である事を割り引いても太宗の軍事的な才能が見えます。

 

西暦618年5月、長安を都に唐が建国され、李淵が皇帝に即位し、長兄の李建成が皇太子になると太宗は秦王に封じられ、尚書令に任じられます。唐は建国したものの、周辺には唐朝を認めない勢力が存在していました。

 

そこで、太宗李世民は、各地を転戦、薛仁杲(せつじんき)劉武周(りゅうぶしゅう)王世充(おうせいじゅう)竇建徳(とうけんとく)劉黒闥(りゅうこくたつ)といった随末唐初に割拠した群雄を次々と平定し軍事的な才能を見せつけます。

 

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兄、李建成との対立が激化

 

621年、李淵は太宗の功績の高さから前代よりの官位では足りないとして、天策上将の称号を王公の上に設置して太宗に与えます。しかし、太宗の名声が高くなると皇太子の李建成は不安を覚え、李淵に訴えて太宗の軍師である房玄齢(ぼうげんれい)杜如晦(とじょかい)を遠ざけるなどの対抗策を採り太宗を失脚させようとします。

 

さらに、建成の幕臣魏徴(ぎちょう)や弟の李元吉(りげんきつ)が世民暗殺を画策し、それを察知した太宗も警戒心を強め、両者の対立は激しさを増していきました。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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