光武帝は兄・劉縯に引きずられて皇帝になったってホント?

2021年4月28日

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光武帝(劉秀)

 

後漢の建国者、光武帝劉秀(こうぶていりゅうしゅう)。

 

数々のチート級の伝説に彩られた彼には、豪傑肌で知られた劉縯(りゅうえん)という兄がいました。そして劉秀の人生は、この人騒がせな兄の影響を受けて流れていき遂には皇帝に即位するところまで突き進んでしまうのです。

 

今回は、自信過剰で弟に世話を焼かせた光武帝の兄、劉縯について解説しましょう。

 

荊州南陽郡蔡陽県に劉欽と樊嫺都の長男として誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

劉縯は、字を伯升(はくしょう)と言い、荊州南陽郡蔡陽県(けいしゅうなんようぐんさいようけん)に南頓県令の劉欽(りゅうきん)と樊嫺都(はんかんと)の長男として誕生します。青年期には当時の豪族の習いで、一族の劉嘉(りゅうか)と共に長安に遊学に出かけ「尚書(しょうしょ)」「春秋(しゅんじゅう)」を修めて帰国しました。

 

三国志大学

 

劉縯は若い頃から大志を抱き、性格も豪傑らしく果断で剛毅(ごうき)、そして任侠(にんきょう)の男伊達を実践し、札(ふだ)付きの悪とも気軽に付き合うなど、なかなかデンジャラスな性格です。

 

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弟をバカにして揶揄う劉縯

光武帝(劉秀)陰麗華

 

一方の劉秀は、大人しい物静かな性格で信頼は得ていたものの、社交的ではなく、また、兄劉縯のような大志も抱かず

 

陰麗華(女性)

 

「将来は執金吾(しつきんご)(近衛憲兵)になって陰麗華(いんれいか)を妻に出来たら満足だ」と思っていたそうです。劉縯が各地の遊侠の徒と付き合い、家財を傾けて散財していた頃、劉秀は地道に畑を耕す毎日を過ごしていました。そんなチマチマした弟を劉縯は馬鹿にして

 

「お前は毎日、土いじりばかりして、まるで劉邦(りゅうほう)の兄の劉喜(りゅうき)みたいだな。その点、俺は土いじりなんぞに興味はない!いつも天下の事を考え名士と付き合っている。俺こそが劉邦だ!そうだろ?」

 

と、うぬぼれ自慢していましたが、劉秀はハイハイと答え受け流していたようです。

 

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光武帝

 

商人感覚の劉秀

 

劉秀と劉縯の父である劉欽は、劉秀が9歳の頃に病死しました。幼い劉秀は、叔父の劉良(りゅうりょう)の援助で小学を出て、20歳近くになると長安に遊学に出ます。

 

しかし兄の時と違い、劉氏は父が死んで貧しくなっていたので、実家の仕送りを期待する事は出来ず、劉秀は同じクラスの同級生とお金を出し合い、驢馬(ろば)を購入して個人の運送業を開業し、学資や生活費を稼いだそうです。それも苦労話というよりは、商売が好きで楽しくて仕方がないという様子であり、劉秀は英雄よりも商人になりたかったのかも知れません。

 

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劉縯の食客の盗みで新野に逃れる

餓えた農民(水滸伝)

 

西暦22年、南陽郡を飢饉(ききん)が襲いました。その頃、劉縯が居候させていた食客の1人が盗みをしでかします。

 

 

劉秀は、この食客を役人から匿(かくま)いますが、それがバレて役人に追われる事になり南陽から新野に逃げ込みました。この新野で劉秀は農業を始めますが、灌漑(かんがい)の知識でも保有していたのか南陽の作物は壊滅しますが、劉秀の畑だけは収穫がありました。

 

劉秀は作物の値段が騰貴(とうき)しているので、穀物を収穫して宛の土地で売りさばいていると、宛に在住していた親戚筋の、李通(りつう)等が図讖(としん)を用いて占いをし、「劉氏は復活し、これを李氏が助けるだろう」と予言します。

 

 

劉秀は商人なので、占いよりもデータを信じますから「そんなバカな」と笑い飛ばしますが、後で、ちょっと待てよと思い直しました。

 

(兄貴は、いつも命知らずの壮士を率いているし、王莽(おうもう)の政治は滅茶苦茶。各地で反乱が頻発(ひんぱつ)している。これは今後、戦乱になるからも知れないぞ。兄貴が天下を取る為に、武器を準備しておくことが必要だ)

 

劉秀(光武帝)

 

こうして、劉秀は穀物を売り、儲けたお金で武器を購入し戦乱に備える事にします。

 

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赤眉&太師&更始のDQN軍団が庶民を苦しめる

世論を操作する王莽

 

さて、漢を倒して禅譲(ぜんじょう)で新を建国した王莽(おうもう)ですが、周の時代を理想とした政治で現実の貨幣経済を無視したので各地で経済が破綻していきます。西暦14年、山東琅邪郡(さんとうろうやぐん)で呂母(りょぼ)という老人が県令に殺害された息子の仇を撃つため私財を投じて数千の不良少年や浮浪者(ふろうしゃ)を集め反乱を起こし県令を殺害しました。

 

呂母は県令を殺害した後に満足して死去しますが、数千の不良少年は「法が過酷(かこく)であり賦税(ふぜい)が重い」事を理由に解散せず西暦18年に同郷の樊崇(はんすう)が兵を挙げると合流し、新王朝に反旗を翻します。

 

赤眉軍

 

こうして誕生したのが中国史に名高いDQN軍団「赤眉(せきび)」でした。赤眉軍を鎮圧する為、王莽は官軍である太師軍と更始(こうし)軍を出撃させますが、この2つの軍を率いる指揮官、王匡(おうきょう)と廉丹(れんたん)は2人揃って三国志に登場する李傕(りかく・郭汜(かくし)レベルのDQN(どきゅん)!

 

李傕・郭汜祭り

 

両軍とも世間の迷惑を顧みず、強引な兵糧強奪を繰り返して各地を疲弊させていきました。

 

当時の世間では

「むしろ出会うなら赤眉軍、太師軍は避けよ!太師ならまだしも更始軍ならブッ殺される」

このように格言が出来る程でした。

 

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劉縯&劉秀、舂陵軍を旗揚げ

牛に乗って登場する光武帝(劉秀)

 

また同時期に、太師軍の王匡とは別人の王匡という人物が貧民を集め緑林山(りょくりんざん)を拠点に、新帝国に叛乱を起こしました。

しかし、緑林軍は西暦22年に疫病が発生して半数が死亡。山に籠り続ける事が不可能になり下山、軍を下江軍(かこうぐん)と新市軍(しんしぐん)に分けて、この中の新市軍が南陽郡に進軍したのです。

 

同じ頃、南陽劉氏本家筋の劉玄(りゅうげん)は平林軍(へいりんぐん)を組織して反乱に備えていました。

 

これを聞いた劉秀の兄劉縯は大喜び

「今こそ劉氏の天下を回復する時ぞ」と挙兵、自分達も新市軍に合流しようとします。ところが、地元では乱暴者の食客を多数養うヤ〇ザとして悪名が通っている劉縯軍に参加する豪族の子弟はほとんどいませんでした。

 

光武帝

 

「なぜじゃあ…、なぜ俺の熱い志を理解してくれんのじゃあ!」

 

兵士が集まらずブチ切れていた劉縯ですが、新野で劉秀が挙兵して南陽にやってくると「あの慎重な劉秀が参加するのだ。これはうまく行くかもしれん」と一転して、多くの南陽豪族の子弟が劉縯軍に参加します。

 

劉縯は軍団を舂陵(しょうりょう)軍と名付け、一族の劉嘉(りゅうか)を新市軍と平林軍に派遣して連合軍結成に成功、デコボコな兄弟ですが、お互いの長所を上手く組み合わせ天下への第一歩を踏み出しました。

 

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度胸の良さで反乱軍を連合させる劉縯

モンゴル兵(蒙古兵)のモブ(兵士)

 

連合軍は宛へ向け出撃、緒戦は勝利したものの、小長安聚(しょうちょうあんじゅ)の戦いで新の前隊大夫(ぜんたいだいふ)、甄阜(しんふ)、属正(ぞくしょう)の梁丘賜(りようきゆうし)に大敗します。この敗北で劉縯は姉劉元(りゅうげん)と弟の劉仲(りゅうちゅう)を始め宗族数十人を戦死させ、南陽郡に退却しました。

 

勝利した甄阜(しんふ)・梁丘賜の新軍は、追撃のため南進を続行。補給部隊を藍郷(らんごう)に留め、10万の精兵を率いて黄淳水(こうじゅんすい)を渡り沘水(ひすい)に臨んで両川(りょうせん)の間に宿営し、後方の橋を壊して背水の陣を敷きました。

 

追い詰められた劉縯ですが、持ち前の度胸の良さを活かし緑林軍系で別行動を取っていた下江軍の頭領、王常(おうじょう)と面会して合流するように持ち掛け、これを承知させます。

 

かくして、下江軍を加えて強大化した劉縯らの連合軍は西暦23年1月反撃に転じます。劉縯は、最初に別働隊に藍郷の補給部隊を奪わせた上で、甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を掛けたのです。

 

強大化した劉縯軍に甄阜・梁丘賜軍は戦意喪失。背水の陣で逃げ場がない甄阜・梁丘賜軍の兵士は、次々と黄淳水に飛び込んで溺れ、2万人余りの死者を出し、甄阜と梁丘賜も混乱の中で戦死します。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

劉縯は勢いづき、育陽で新の納言(なごん)将軍厳尤(そうゆう)と秩宗将軍(ちつそうしょうぐん)陳茂(ちんも)を撃破し宛を包囲します。

 

梁興

 

勢いに乗った劉縯は柱天大将軍(おうてんだいしょうぐん)を自称し、長安の王莽は劉縯の勇名を恐れ首級(くび)に5万戸の食邑(しょくゆう)と10万斤の黄金を懸けました。

 

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天子争いで劉玄に皇位を譲る

洛陽城

 

新軍に大勝した連合軍においては、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを天子として擁立するかが諸将の間で議論になりました。

まだ、王莽を滅ぼしたわけでもないのですが、漢の復興を掲げている以上は、漢の天子を決めておかないと求心力が保てない事情もあったのでしょう。

 

この際に、南陽の士大夫と王常は功績抜群の劉縯を推し、その他の諸将は、南陽劉氏の本家筋の劉玄を推し事態は紛糾(ふんきゅう)。結局劉縯は分裂を避けるため劉玄に地位を譲ります。

 

こうして西暦23年2月、劉玄は更始帝(こうしてい)として即位。劉縯は大司徒(だいしと)に任命されました。

 

劉縯は同年5月に宛を攻め陥(お)とし、弟の劉秀も昆陽(こんよう)で新の100万を号する正規軍を少数の味方で殲滅する奇跡の大勝利を挙げました。しかし、これにより劉縯・劉秀兄弟の名声はさらに高まり更始帝の周辺は2人の排除を企むようになります。

 

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性格が災いし劉縯は暗殺される

真っ二つにされる魏続(ぎぞく)兵士

 

あるとき更始帝が劉縯から宝剣を見せてもらう機会がありました。この時に繡衣御史(しゅういぎょし)として側にいた申屠建(しんとけん)が、玉(玦(ぎょくけつ)を示して劉縯を殺害するよう促します。しかし、この時の更始帝は劉縯を恐れて決断できませんでした。

 

この暗殺未遂は劉縯の母の兄弟である樊宏(はんこう)が目撃し、樊宏は劉縯に警告します。ところが、剛毅な性格の劉縯は「大した事ではない」と笑って受け流しました。

 

劉秀も、挙兵以来の劉縯の同志李軼(りいつ)が、更始帝に接近し始めているのを知り、劉縯に「もはや李軼を信用しては危険です」と諫(いさ)めますが劉縯は「何を言うか…」と平然として聞き入れません。

 

そして、事件は起こります。日頃から更始帝に不満を抱いていた劉縯配下の勇将劉稷(りゅうしょく)が抗威将軍(こういしょうぐん)への就任を拒否。

これを更始帝が咎めて劉稷を逮捕処刑しようとする事件が起きたのです。

 

劉縯は一族の劉稷を救おうと更始帝の下に駆けつけますが、これ幸いと大司馬朱鮪(しゅうい)と李軼が劉縯殺害を勧め、更始帝は劉縯を劉稷もろとも誅殺(ちゅうさつ)してしまいました。

 

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kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

兄の命を救えなかった劉秀は更始帝に激しい怒りを持ちますが、持ち前の自制心でガマンして、兄の非礼を更始帝に謝罪、弔問でも少しの恨み言も言わず、更始帝の猜疑心を刺激しないように振る舞いました。

 

 

やがて、更始帝の元には王莽を見限った勢力が続々と集結しますが、河北には独立勢力が割拠したので、更始帝は大司徒劉賜(りゅうし)の意見を採用し、劉秀を河北に派遣。

 

これにより更始帝の監視を免れた劉秀は苦しい戦いを続けつつ、力を貯えて河北を平定し、兄に代わり天下を平定する事になるのです。最初は兄に天下を取らせようと考えていた劉秀は、天下を統一した時、亡き兄に対しどんな感慨を持ったのでしょうね?

 

参考文献:後漢書

 

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はじめての漢王朝

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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