後漢の建国者、光武帝劉秀。
数々のチート級の伝説に彩られた彼には、豪傑肌で知られた劉縯という兄がいました。そして劉秀の人生は、この人騒がせな兄の影響を受けて流れていき遂には皇帝に即位するところまで突き進んでしまうのです。
今回は、自信過剰で弟に世話を焼かせた光武帝の兄、劉縯について解説しましょう。
この記事の目次
荊州南陽郡蔡陽県に劉欽と樊嫺都の長男として誕生
劉縯は、字を伯升と言い、荊州南陽郡蔡陽県に南頓県令の劉欽と樊嫺都の長男として誕生します。青年期には当時の豪族の習いで、一族の劉嘉と共に長安に遊学に出かけ「尚書」「春秋」を修めて帰国しました。
劉縯は若い頃から大志を抱き、性格も豪傑らしく果断で剛毅、そして任侠の男伊達を実践し、札付きの悪とも気軽に付き合うなど、なかなかデンジャラスな性格です。
関連記事:劉邦はなぜ大粛清を行ったのか?劉邦の粛清を少し考えてみる
関連記事:【楚漢戦争】劉邦をイジメ、苦しめた、いじめっ子雍歯(ようし)
弟をバカにして揶揄う劉縯
一方の劉秀は、大人しい物静かな性格で信頼は得ていたものの、社交的ではなく、また、兄劉縯のような大志も抱かず
「将来は執金吾(近衛憲兵)になって陰麗華を妻に出来たら満足だ」と思っていたそうです。劉縯が各地の遊侠の徒と付き合い、家財を傾けて散財していた頃、劉秀は地道に畑を耕す毎日を過ごしていました。そんなチマチマした弟を劉縯は馬鹿にして
「お前は毎日、土いじりばかりして、まるで劉邦の兄の劉喜みたいだな。その点、俺は土いじりなんぞに興味はない!いつも天下の事を考え名士と付き合っている。俺こそが劉邦だ!そうだろ?」
と、うぬぼれ自慢していましたが、劉秀はハイハイと答え受け流していたようです。
関連記事:【光武帝の伝説の戦い】劉秀の評判がこんなにも高い秘密はここにあった!
商人感覚の劉秀
劉秀と劉縯の父である劉欽は、劉秀が9歳の頃に病死しました。幼い劉秀は、叔父の劉良の援助で小学を出て、20歳近くになると長安に遊学に出ます。
しかし兄の時と違い、劉氏は父が死んで貧しくなっていたので、実家の仕送りを期待する事は出来ず、劉秀は同じクラスの同級生とお金を出し合い、驢馬を購入して個人の運送業を開業し、学資や生活費を稼いだそうです。それも苦労話というよりは、商売が好きで楽しくて仕方がないという様子であり、劉秀は英雄よりも商人になりたかったのかも知れません。
関連記事:[ビジネス三国志]自分用のキャッチコピーを造り人脈を広げる
関連記事:光武帝はとんでもないスピリチュアマニアだった!?劉秀の意外な一面
劉縯の食客の盗みで新野に逃れる
西暦22年、南陽郡を飢饉が襲いました。その頃、劉縯が居候させていた食客の1人が盗みをしでかします。
劉秀は、この食客を役人から匿いますが、それがバレて役人に追われる事になり南陽から新野に逃げ込みました。この新野で劉秀は農業を始めますが、灌漑の知識でも保有していたのか南陽の作物は壊滅しますが、劉秀の畑だけは収穫がありました。
劉秀は作物の値段が騰貴しているので、穀物を収穫して宛の土地で売りさばいていると、宛に在住していた親戚筋の、李通等が図讖を用いて占いをし、「劉氏は復活し、これを李氏が助けるだろう」と予言します。
劉秀は商人なので、占いよりもデータを信じますから「そんなバカな」と笑い飛ばしますが、後で、ちょっと待てよと思い直しました。
(兄貴は、いつも命知らずの壮士を率いているし、王莽の政治は滅茶苦茶。各地で反乱が頻発している。これは今後、戦乱になるからも知れないぞ。兄貴が天下を取る為に、武器を準備しておくことが必要だ)
こうして、劉秀は穀物を売り、儲けたお金で武器を購入し戦乱に備える事にします。
関連記事:三国志の時代でも副業が流行っていた!サイドビジネスの種類を紹介!
関連記事:三国志の時代でも副業が流行っていた!サイドビジネスの種類を紹介!
【次のページに続きます】