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光武帝は兄・劉縯に引きずられて皇帝になったってホント?

2021年4月28日


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劉秀が皇帝になった理由(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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赤眉&太師&更始のDQN軍団が庶民を苦しめる

世論を操作する王莽

 

さて、漢を倒して禅譲(ぜんじょう)で新を建国した王莽(おうもう)ですが、周の時代を理想とした政治で現実の貨幣経済を無視したので各地で経済が破綻していきます。西暦14年、山東琅邪郡(さんとうろうやぐん)呂母(りょぼ)という老人が県令に殺害された息子の仇を撃つため私財を投じて数千の不良少年や浮浪者(ふろうしゃ)を集め反乱を起こし県令を殺害しました。

 

呂母は県令を殺害した後に満足して死去しますが、数千の不良少年は「法が過酷(かこく)であり賦税(ふぜい)が重い」事を理由に解散せず西暦18年に同郷の樊崇(はんすう)が兵を挙げると合流し、新王朝に反旗を翻します。

 

赤眉軍

 

こうして誕生したのが中国史に名高いDQN軍団「赤眉(せきび)」でした。赤眉軍を鎮圧する為、王莽は官軍である太師軍と更始(こうし)軍を出撃させますが、この2つの軍を率いる指揮官、王匡(おうきょう)廉丹(れんたん)は2人揃って三国志に登場する李傕(りかく郭汜(かくし)レベルのDQN(どきゅん)

 

李傕・郭汜祭り

 

両軍とも世間の迷惑を顧みず、強引な兵糧強奪を繰り返して各地を疲弊させていきました。

 

当時の世間では

「むしろ出会うなら赤眉軍、太師軍は避けよ!太師ならまだしも更始軍ならブッ殺される」

このように格言が出来る程でした。

 

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&劉秀、舂陵軍を旗揚げ

牛に乗って登場する光武帝(劉秀)

 

また同時期に、太師軍の王匡とは別人の王匡という人物が貧民を集め緑林山(りょくりんざん)を拠点に、新帝国に叛乱を起こしました。

しかし、緑林軍は西暦22年に疫病が発生して半数が死亡。山に籠り続ける事が不可能になり下山、軍を下江軍(かこうぐん)新市軍(しんしぐん)に分けて、この中の新市軍が南陽郡に進軍したのです。

 

同じ頃、南陽劉氏本家筋の劉玄(りゅうげん)平林軍(へいりんぐん)を組織して反乱に備えていました。

 

これを聞いた劉秀の兄劉は大喜び

「今こそ劉氏の天下を回復する時ぞ」と挙兵、自分達も新市軍に合流しようとします。ところが、地元では乱暴者の食客を多数養うヤ〇ザとして悪名が通っている劉縯軍に参加する豪族の子弟はほとんどいませんでした。

 

光武帝

 

「なぜじゃあ…、なぜ俺の熱い志を理解してくれんのじゃあ!」

 

兵士が集まらずブチ切れていた劉ですが、新野で劉秀が挙兵して南陽にやってくると「あの慎重な劉秀が参加するのだ。これはうまく行くかもしれん」と一転して、多くの南陽豪族の子弟が劉軍に参加します。

 

は軍団を舂陵(しょうりょう)軍と名付け、一族の劉嘉(りゅうか)を新市軍と平林軍に派遣して連合軍結成に成功、デコボコな兄弟ですが、お互いの長所を上手く組み合わせ天下への第一歩を踏み出しました。

 

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度胸の良さで反乱軍を連合させる劉

モンゴル兵(蒙古兵)のモブ(兵士)

 

連合軍は宛へ向け出撃、緒戦は勝利したものの、小長安聚(しょうちょうあんじゅ)の戦いで新の前隊大夫(ぜんたいだいふ)甄阜(しんふ)属正(ぞくしょう)梁丘賜(りようきゆうし)に大敗します。この敗北で劉は姉劉元(りゅうげん)と弟の劉仲(りゅうちゅう)を始め宗族数十人を戦死させ、南陽郡に退却しました。

 

勝利した甄阜(しんふ)・梁丘賜の新軍は、追撃のため南進を続行。補給部隊を藍郷(らんごう)に留め、10万の精兵を率いて黄淳水(こうじゅんすい)を渡り沘水(ひすい)に臨んで両川(りょうせん)の間に宿営し、後方の橋を壊して背水の陣を敷きました。

 

追い詰められた劉縯ですが、持ち前の度胸の良さを活かし緑林軍系で別行動を取っていた下江軍の頭領、王常(おうじょう)と面会して合流するように持ち掛け、これを承知させます。

 

かくして、下江軍を加えて強大化した劉縯らの連合軍は西暦23年1月反撃に転じます。劉縯は、最初に別働隊に藍郷の補給部隊を奪わせた上で、甄阜・梁丘賜軍に総攻撃を掛けたのです。

 

強大化した劉縯軍に甄阜・梁丘賜軍は戦意喪失。背水の陣で逃げ場がない甄阜・梁丘賜軍の兵士は、次々と黄淳水に飛び込んで溺れ、2万人余りの死者を出し、甄阜と梁丘賜も混乱の中で戦死します。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

劉縯は勢いづき、育陽で新の納言(なごん)将軍厳尤(そうゆう)秩宗将軍(ちつそうしょうぐん)陳茂(ちんも)を撃破し宛を包囲します。

 

梁興

 

勢いに乗った劉縯は柱天大将軍(おうてんだいしょうぐん)を自称し、長安の王莽は劉縯の勇名を恐れ首級(くび)に5万戸の食邑(しょくゆう)と10万斤の黄金を懸けました。

 

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天子争いで劉玄に皇位を譲る

洛陽城

 

新軍に大勝した連合軍においては、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを天子として擁立するかが諸将の間で議論になりました。

まだ、王莽を滅ぼしたわけでもないのですが、漢の復興を掲げている以上は、漢の天子を決めておかないと求心力が保てない事情もあったのでしょう。

 

この際に、南陽の士大夫と王常は功績抜群の劉縯を推し、その他の諸将は、南陽劉氏の本家筋の劉玄を推し事態は紛糾(ふんきゅう)。結局劉縯は分裂を避けるため劉玄に地位を譲ります。

 

こうして西暦23年2月、劉玄は更始帝(こうしてい)として即位。劉縯は大司徒(だいしと)に任命されました。

 

劉縯は同年5月に宛を攻め()とし、弟の劉秀も昆陽(こんよう)で新の100万を号する正規軍を少数の味方で殲滅する奇跡の大勝利を挙げました。しかし、これにより劉縯・劉秀兄弟の名声はさらに高まり更始帝の周辺は2人の排除を企むようになります。

 

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性格が災いし劉縯は暗殺される

真っ二つにされる魏続(ぎぞく)兵士

 

あるとき更始帝が劉縯から宝剣を見せてもらう機会がありました。この時に繡衣御史(しゅういぎょし)として側にいた申屠建(しんとけん)が、((ぎょくけつ)を示して劉縯を殺害するよう促します。しかし、この時の更始帝は劉縯を恐れて決断できませんでした。

 

この暗殺未遂は劉縯の母の兄弟である樊宏(はんこう)が目撃し、樊宏は劉縯に警告します。ところが、剛毅な性格の劉縯は「大した事ではない」と笑って受け流しました。

 

劉秀も、挙兵以来の劉縯の同志李軼(りいつ)が、更始帝に接近し始めているのを知り、劉縯に「もはや李軼を信用しては危険です」と(いさ)めますが劉縯は「何を言うか…」と平然として聞き入れません。

 

そして、事件は起こります。日頃から更始帝に不満を抱いていた劉縯配下の勇将劉稷(りゅうしょく)抗威将軍(こういしょうぐん)への就任を拒否。

これを更始帝が咎めて劉稷を逮捕処刑しようとする事件が起きたのです。

 

劉縯は一族の劉稷を救おうと更始帝の下に駆けつけますが、これ幸いと大司馬朱鮪(しゅうい)と李軼が劉縯殺害を勧め、更始帝は劉縯を劉稷もろとも誅殺(ちゅうさつ)してしまいました。

 

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kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

兄の命を救えなかった劉秀は更始帝に激しい怒りを持ちますが、持ち前の自制心でガマンして、兄の非礼を更始帝に謝罪、弔問でも少しの恨み言も言わず、更始帝の猜疑心を刺激しないように振る舞いました。

 

 

やがて、更始帝の元には王莽を見限った勢力が続々と集結しますが、河北には独立勢力が割拠したので、更始帝は大司徒劉賜(りゅうし)の意見を採用し、劉秀を河北に派遣。

 

これにより更始帝の監視を免れた劉秀は苦しい戦いを続けつつ、力を貯えて河北を平定し、兄に代わり天下を平定する事になるのです。最初は兄に天下を取らせようと考えていた劉秀は、天下を統一した時、亡き兄に対しどんな感慨を持ったのでしょうね?

 

参考文献:後漢書

 

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はじめての漢王朝

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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