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この記事の目次
張遼の病気を心配し太医の馬車に群がる800人
黄初二年(221年)孫権がまた王を自称したので、張遼は雍丘に駐屯しますが、ここで、長年の無理が祟ったのか病気に罹ります。
曹丕は侍中の劉曄と太医を派遣して手厚く見舞いますが、この時、虎賁になっていた、かつての張遼の部下800名は、張遼の病気を心配し道路に連なって劉曄と太医の馬車が戻って来るのを待っていたそうです。
すでに、所属も違い、直属の配下でもなくなった800名ですが、合肥の戦場で命懸けで自分達を救ってくれた張遼の事を忘れず、こうして病気を心配して集まって来たんですね。
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一度は回復するが江都で病死
虎賁たちが大勢で自分の病状を心配した事について、張遼がどう思ったのかは残念な事に張遼伝に記録があいりません。
しかし、張遼は、曹丕の派遣した医療スタッフの手厚い看護もあり回復し、洞口の戦いでは呂範を攻撃するなどして数千人の呉兵を溺死させるなど奮戦。
孫権は、張遼恐怖症が甦り、
「張遼は病気だとはいえ油断ならん、見くびらずにしっかり備えよ!」と部下に対して注意を呼び掛けています。ところが、病み上がりで戦ったのが悪かったのか、張遼は戦後すぐに病が重くなり江都で病死しました。
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三国志ライターkawausoの独り言
三国志の頃の兵士と指揮官の関係は大抵ドライなものです。特に魏は早期に正規軍が整備され傭兵団が廃された関係から、兵士たちは割符を持っている将軍に事務的に従うという傾向が強くなりました。
将軍個人にではなく、魏王朝に忠誠を尽くすように関係性が変化していったのです。その為、張遼と決死隊800人のように、特定の将軍の所属を離れた後も部隊の動向が分かるケースというのは、そんなに多くありません。
少なくとも張遼にとって部下は消耗品ではなく、共に生き共に死ぬ関係だったという事であり、その心意気が部下にも伝わり、張遼を名将に押し上げていったのかも知れませんね。
参考文献:正史三国志張遼伝
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