張遼はなぜ決死隊800名を助ける必要があったのか?

はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

決死隊800名(1P目)




張遼の病気を心配し太医の馬車に群がる800人

司馬亮を気遣って兵士たちが扇で仰ぐ

 

黄初(こうしょ)二年(221年)孫権がまた王を自称したので、張遼は雍丘(ようきゅう)に駐屯しますが、ここで、長年の無理が祟ったのか病気に罹ります。

 

劉曄

 

曹丕は侍中の劉曄(りゅうよう)と太医を派遣して手厚く見舞いますが、この時、虎賁になっていた、かつての張遼の部下800名は、張遼の病気を心配し道路に連なって劉曄と太医の馬車が戻って来るのを待っていたそうです。

 

週刊誌を楽しみにするkawauso様

 

すでに、所属も違い、直属の配下でもなくなった800名ですが、合肥の戦場で命懸けで自分達を救ってくれた張遼の事を忘れず、こうして病気を心配して集まって来たんですね。

 

関連記事:戦場で華々しい活躍をした三国志時代の特殊部隊

関連記事:【感動!】公孫瓚が白馬義従を結成した経緯がドラマチック




一度は回復するが江都で病死

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

虎賁たちが大勢で自分の病状を心配した事について、張遼がどう思ったのかは残念な事に張遼伝に記録があいりません。

 

呂範

 

しかし、張遼は、曹丕の派遣した医療スタッフの手厚い看護もあり回復し、洞口(どうこう)の戦いでは呂範(りょはん)を攻撃するなどして数千人の呉兵を溺死させるなど奮戦。

 

呉お正月企画、お酒にまつわる逸話07 孫権

 

孫権は、張遼恐怖症が甦り、

「張遼は病気だとはいえ油断ならん、見くびらずにしっかり備えよ!」と部下に対して注意を呼び掛けています。ところが、病み上がりで戦ったのが悪かったのか、張遼は戦後すぐに病が重くなり江都で病死しました。

 

関連記事:合肥の英雄・張遼も曹操並の人材集めに必死だった!?

関連記事:陸遜も参戦した合肥の戦い(第四次戦役 234年)を分かりやすく解説




三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

三国志の頃の兵士と指揮官の関係は大抵ドライなものです。特に魏は早期に正規軍が整備され傭兵団が廃された関係から、兵士たちは割符を持っている将軍に事務的に従うという傾向が強くなりました。

 

敵を相手にして奮闘する張遼

 

将軍個人にではなく、魏王朝に忠誠を尽くすように関係性が変化していったのです。その為、張遼と決死隊800人のように、特定の将軍の所属を離れた後も部隊の動向が分かるケースというのは、そんなに多くありません。

 

高順と張遼

 

少なくとも張遼にとって部下は消耗品ではなく、共に生き共に死ぬ関係だったという事であり、その心意気が部下にも伝わり、張遼を名将に押し上げていったのかも知れませんね。

 

参考文献:正史三国志張遼伝

 

関連記事:もしも、合肥の戦いで張遼が孫権を討ち取っていたら三国志はどうなる?

関連記事:張遼の逸話から分かる合肥の鬼神!ウルトラハイパー武将を考察

 

【天下無双の豪傑・呂布の放浪記】
呂布

 




< 1

2

関連記事

  1. 病気になった兵士
  2. 愛馬に乗る張遼
  3. 愛馬に乗る張遼

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“はじめての三国志公式LINEアカウント"

“光武帝

“三国志データベース"

“三国志人物事典

鍾会の乱

八王の乱

“はじめての三国志公式LINEアカウント"




PAGE TOP