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皇后潘氏が殺害される
太元二年(252年)正月、孫権は二宮の変の処分を少し変更。元の皇太子の孫和を南陽王として長沙に置き、子の孫奮を斉王とし武昌に置き、さらに子の孫休を瑯邪王として虎林に置きました。
2月には、再び大赦し、改元して神鳳とします。しかし、孫権が皇后に立てた孫亮の生母、潘氏が宮廷の人間に殺害されました。不安を感じた諸々の将軍や官吏は、しばしば王表に詣でて福を授けてくれるように要請しますが、王表は呉の大乱を予感したのか逃亡してしまいます。
こうしてみると王表はやはり、混乱の世の中に乗じて富を得ようとするインチキくさい、予言者や食わせ物の類だったのかも知れません。この混乱の中で4月、孫権が71歳で死去します。不穏な雰囲気が漂った状態での孫権の寂しい最期でした。
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孫権は神人に惑わされなかった
ここまでが最晩年の孫権の行動ですが、神人王表を歓迎した割には屋敷を建て、時々御馳走を持たせて色々な予言をさせただけで、国政に関与させて国庫を傾けるような、痛い盲信はしていない様子が窺えます。
もし、死の不安から不老不死の執念に憑りつかれていたなら、もっと散財して国を混乱に陥れた後で王表に逃げられ、はい!騙されました。
ぎゃふん!
みたいになりそうですが、そうではないので、ある程度自分の死期を受け入れた上で、神人の予言を聞いていたようです。
それ以外では、大赦や改元が頻繁になっていますが、国力の低下を憂いて、少しでも人民を休ませ、孫亮の時代が穏やかに進むように考えたのでしょうか?
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は孫権の最晩年について、色々と考えてみました。神人を招聘したあたりで、ありもしない不老不死や予言に縋るかと思ったのですが、老害化したとはいえ、半世紀も呉を牽引しただけあり、胡散臭い連中への距離の取り方の感覚までは、失っていなかったようです。
後世から老害と決めつけられる孫権ですが、最晩年に至っても怪しげな予言者を信じて呉を傾けるまでには至っていないので、老害なりにギリギリのバランスは保っていたと考えられます。
参考文献:正史三国志呉主伝
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