孫権はどうして関羽の首を塩漬けにして曹操に送ったの?




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関羽を捕縛する馬忠

 

関羽(かんう)荊州(けいしゅう)にある襄陽(じょうよう)を攻めて敗北し、孫権(そんけん)軍に捕らえられて処刑されました。その後、関羽の首は曹操(そうそう)の元へと送られています。

 

ブチギレる劉備

 

三国志演義では孫権が劉備(りゅうび)に恨まれるのを避けるために曹操へ送ったとありますが、孫権はしたたかさと視野の広さを兼ね備えた人物だと筆者は考えているので、別な目的があったと推察します。

 

呉の孫権

 

今回は関羽の首の価値、そしてそれを対価に孫権は何を手にしたのか新しい説を考えてみましたのでお付き合いください。




死体はキレイな状態が基本

戦死 霊柩車 槥(エイ車)

 

まずは首だけを他国に送るという行動について注目をしてみます。古代中国では遺体は完璧な状態(手足や首など欠損がない)で葬るという考え方が一般的で、そのために土葬を行っていました。

 

戦争では首級を挙げることで報奨がもらえるので完璧な状態での埋葬は不可能なのですが、戦場の死体処理や獲った首の腐敗などを考慮すると首と身体は比較的近い場所で葬られたと考えられます。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

しかし、関羽の場合は遥か遠方に送られているわけです。もしかすると関羽が死後に「首を返せ」と化けて出た話も風習に反しているからこそ生まれたのかもしれません。

 

関連記事:呉の呂蒙は死の原因は病気だった?関羽の呪いは関与してない?

関連記事:孫皎(そんこう)とはどんな人?孫氏一族の文武兼備な将軍。しかし関羽の呪いで




塩は貴重品

正史三国志_書類

 

正史には細かな記載がありませんが、関羽の首を曹操のもとへ運搬するには塩漬けが不可欠だったと思われます。関羽が処刑されたのは冬頃なので簡単に腐敗はしなかったかもしれませんが、関羽と判別できなければ意味がないので万全を期して塩漬けにしたと予想します。

 

蜀の劉備

 

ただ、当時の塩は貴重品で、劉備は司塩校尉(しえんこうい)という役職を設けて専売で利益を出すほどでした。それを少量とはいえ敵将に使うのは、それに見合う対価があったと考えられます。ちなみに現在の中国には5つの塩の産地があります。

 

蜀の兵士

 

仮に219年頃も同じ場所で塩が取れていたとするなら、曹操は揚州(ようしゅう)北部と関羽の出生地である河東郡解県(かとうぐんかいけん)の塩湖で、劉備は益州(えきしゅう)において(塩分濃度の高い地下水を汲み上げて塩を生成する)生産が可能だったので塩は大量にあったでしょう。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

それに対して当時の孫権領では会稽郡(かいけいぐん)くらいしか産地はありません。銅山があり貨幣経済が充実していたので貿易によって入手していた可能性はありますが、やはり希少なものだったはず。

 

【塩を求めて争った人類の歴史】
塩と人類の歴史

 

孫権の漢王朝復興プラン

魯粛と周瑜が詐欺を決行

 

かつて魯粛(ろしゅく)は孫権に帝位に就くよう勧め、当時の孫権は漢王朝を救うことが優先と答えました。後に情勢の変化によって皇帝に即位しますが、もともとは漢王朝復興のプランを考えていたと予想して考えていきます。

 

曹操を殴る孫権

 

孫権は赤壁(せきへき)の戦いから217年ころまで揚州北部で曹操軍と争っていますが、高い確率で勝利を収めています。しかし、揚州からでは天子のいる許都(きょと)まで遠く、国力において圧倒的優位な立場にある曹操軍を切り崩すのも難しい。

 

劉備と孫権

 

そうなると許都への急襲くらいしか手段がありませんが、その際の重要拠点となるのが荊州です。当初、劉備は益州平定後に荊州を返還すると約束しましたが、結局あれこれと言い訳をしてうやむやにされます。

 

呉魏に臣従したり抜けたりを繰り返す孫権

 

そこで孫権は大きく方向を変え、曹操に臣従する形で和睦。荊州奪還に力を注ぎます。

 

呂蒙

 

魯粛と呂蒙(りょもう)の活躍で南郡の半分は回収しましたが、長沙の各地では関羽と通じた者たちが謀反を起こすなど情勢は不安定。

 

孫権 弔い出陣

 

なんとか関羽を排除したい孫権ですが、劉備と戦えば曹操が得をするので容易に争うわけにもいきません。ひとまず牽制も兼ねて曹操に「皇帝に即位してみては?」と提案します。

 

苛ついている曹操

 

曹操領内では反乱が多発していたので、曹操が皇帝になったことを糾弾し、うまく扇動すれば許都急襲も狙えるかもしれません。が、曹操もそこまで軽率ではないので失敗に終わります。

 

関連記事:曹沖は魏の皇帝になる予定だった?曹操が愛した息子をご紹介

関連記事:曹操が皇帝に即位していたら三国志はどうなったの?

 

関羽の首の価値

樊城の戦い

 

孫権は関羽と曹操を争わせることで荊州奪還を狙います。そのために、まずは合肥方面の曹操領に侵攻し、さらに呂蒙が関羽にへつらうことで敵意が無いことを示します。

 

諸葛瑾

 

また、断られるのを承知で諸葛瑾(しょかつきん)を遣わせて荊州返還を要求したり、縁談を持ちかけて傲慢な関羽を増長させました。思惑通り関羽は「孫権ごとき一喝すれば黙らせられる」と油断します。

 

はじめてのプロ野球 関羽

 

さらに関羽の目が樊城(はんじょう)に向かうと援軍を申し入れ、調子に乗った関羽が孫権領内から軍需物資を強奪しても大事にしないなど徹底して下手に出ることで完全に警戒を解きました。あとは機を見て南郡を奪えば目的達成ですが、ここは慎重になる必要があります。荊州奪還後に曹操と争うことになっては意味がないからです。

 

野球をする曹操と関羽と呂布

 

孫権にとって嬉しい誤算は関羽が予想以上に善戦し、曹操が遷都を考えるほどに精神的なプレッシャーをかけたことでした。危険を感じた曹操は荊州の領有権という対価をぶら下げて孫権に同盟を持ちかけます。

 

孫権

 

つまり、関羽の首と荊州が等価になったのです。ただ、その後のプランも考えていた孫権は領有権とは別に正式に将軍位がほしいと曹操に交渉します。

 

関連記事:関羽は劉備の配下ではなかった?荊州独立説を考察

関連記事:劉備による荊州借りパク問題はなぜ起こったの?荊州借用問題を解説

 

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