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司馬乂、悲運の最期
年が明けても連合軍は司馬乂を打ち破れず、半数近くもの被害を出していました。圧倒的苦境を覆しまくる司馬乂の存在は兵士たちにとって正に一つの巨星のような存在であり、兵士たちは異様なほどの士気の高さで戦っていたのです。
これと戦わなければいけない連合軍・張方は既に撤退を考えていたのですが、ここで動いたのが東海王・司馬越。洛陽の状態から戦い続けることはできないと判断して、密かに司馬乂を捕縛、監禁しました。
降伏しようとしていた張方もこれにはびっくり、降伏してしまった司馬越側もびっくり。ここで洛陽側では「司馬乂にもう一回出てきてもらえば戦えるんじゃないか」という空気が漂い始めます。これを察した司馬越は張方に密かに連絡を取ります。
司馬乂は生きたまま、焼き殺されました。享年28歳、正に八王の乱の被害者の一人として終わりを迎えたのです。
司馬乂という人物
司馬乂は明朗な性格、才気に溢れ、謙虚で人望が厚く、恵帝にも心から仕えた人物と記されています。
八王の乱自体は皇后・賈南風がやりたい放題をやったことで始まりましたが、その際にも夫であり、皇帝であるはずの恵帝・司馬衷はされるがままでした。しかしその恵帝・司馬衷が唯一、自分の意見でもって周囲に飲まれることなく味方した人物です。
そのことからも、周囲に与える影響力の強い人間だったと窺い知れますね。だからこそ周囲からすると「取り除かなければならない人間」だった、と思うと、何とも皮肉。
もしも彼がここで命を奪われることなく生き続けていたら……もしかしたら晋王朝はもっと続いていたのでは。そう思わせる、ある種の「希望」であったと思います。
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司馬乂、最期の手紙
司馬乂は最期、捕らわれた際に恵帝・司馬衷に上奏文を送りました。その中には、こういう一文があります。
「私は命など惜しくはありませんが、ただ、晋が衰退してしまうことを憂いております」
そこには自らの保身はありませんでした。保護を求めてもいませんでした。ただ恵帝の身を案じ、衰弱していく晋王朝、父・司馬炎の作り上げた国の行く様をただ憂いた思いだけがありましたもしかしたら彼はこんな世ではなく、三国時代に生まれていた方がもっと輝けていたのかも、しれません。
三国志ライター センのひとりごと
八王の乱のメンバーは何とも言い難いメンバー揃いですが、その中でも司馬乂は異彩を放っています。
ただその存在は陰謀野望渦巻く時代では、生き残れないものでした。存在だけで士気を保てる人物は、寧ろ戦乱の世の中の方が輝けていたのかもしれませんね。
もうちょっとだけ続く八王の乱、次回も更なる深みへ……とぷん。
参考文献:晋書列伝第十 列伝第二十九
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