

過去には大英帝国として、世界の七つの海を支配したイギリス。日本と同じく島国であり、立憲君主国である事から明治維新前後の日本から多くの人々が渡英して西洋の新知識を吸収した国でもあります。
そんな馴染み深いイギリスですが、歴史というと部分部分しか知らない人も多いでしょう。今回のまるっと世界史は、海賊によって建国されたイギリスの歴史(前編)を解説します。
この記事の目次
ブリトゥン人の時代
イギリスの中心であるブリテン島は氷河期には大陸と地続きであり、ネアンデルタール人など旧人が渡ってきて生活していた事が遺跡から分かっています。およそ1万年前には新人が大型獣を追ってブリテン島に渡り、約6000年前には海面が上昇してブリテン島は大陸から切り離され島になりました。
紀元前2200年から紀元前1300年前の時期に青銅器と農耕文化を持つビーカ人が登場。有名なストーンヘンジという巨石文化を残す事になります。
紀元前7世紀頃、大陸から鉄器文明を持つケルト人がブリテン島に上陸。鉄の普及で農耕は格段に向上し人口も増加していきますが、同時に部族間抗争も発生。島には奴隷制が広がり貧富の差が産まれました。
紀元前も末になると、古代ローマがブリテン島を支配下に組み込みブリタニアと呼称。紀元前55年にはローマの将軍であるカエサルがガリア遠征の足を延ばしブリタニアに出兵しますが、ブリトゥン人は戦車戦法で抵抗、征服を免れます。
ローマの属州時代
その後、ブリタニアは紀元前43年にローマ皇帝クラウディウスに征服されて再び属州となり、ローマ人の入植が本格化。西暦122年には五賢帝の1人、ハドリアヌス帝が長城を築き、ブリテン島北方のケルト系のピクト人に備えました。
ローマ属州時代のブリタニアでは、土木マニア、ローマ人の手により続々と都市が建設され、道路網が結ばれ公共浴場や円形競技場が建設され、ローマ文明の影響を受けます。また、この時代、州都ロンデニウムが建設されています。後のロンドンです。
しかし、ローマ人入植者は先住民から土地を強奪したので反乱は頻発し統治は不安定化。西暦60年にはイケーニー族の女王ボウディッカが反乱を起こし鎮圧されています。
ところが、ローマ帝国は、大陸でのゲルマン人の活動が活発になって弱体化、辺境のブリタニアを維持できなくなり、409年にブリタニア属州を放棄しました。
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イングランドとスコットランドの成立
3世紀頃、ローマの支配が弱くなると地元民のブリトゥン人が自立します。しかし、5世紀になると大陸からゲルマン人が大移動を開始し、その一派のアングロ=サクソン人がブリテン島に盛んに移住しました。
有名なアーサー王伝説はアングロ=サクソン人の侵入と戦ったブルトゥン人の英雄の物語です。
しかし、ブリトゥン人はアングロ=サクソン人に次第に圧倒されていき、一部は大陸に移住し、その土地はブルターニュと呼ばれるようになります。こうして、元のブリテン島は大きなブリテン島という意味からグレートブリテン島と呼ばれました。
アングロ=サクソン人の移住と征服活動は長期に渡り続き、ブリトゥン人などのケルト系氏族とも混合が続き同化が進みます。6世紀末には、アングロ=サクソン人はブリテン島の東南部から中部を占領。かくして、ブリテン島はアングル人の土地を意味するイングランドと呼ばれるようになりました。
この頃、ブリテン島の北部ではアイルランドから移住したスコット人(ケルト系)による統合が進み、11世紀頃までにスコットランド王国が形成されます。
キリスト教の布教
キリスト教はアングロ=サクソン人の侵入以前にウエールズとスコットランドのケルト人社会に伝わっており、ガリアの宣教師ゲルマヌス、ブリトゥン人の聖パトリック、アイルランド出身の聖コロンバンなどが布教していました。
それに対し、ローマ教皇グレゴリウス1世は正統的カトリックの布教を目指して597年修道士アウグストゥスを派遣。アングロ=サクソン七王国の1つケント王国の改宗に成功しイングランド最初のカンタベリー大司教が置かれます。
こうして6世紀から8世紀にかけて、ブリテン島・アイルランドのキリスト教化が進みますが、アイルランドのキリスト教は修道会中心主義でありイングランドはローマ教皇と結びついた教会組織による一般信徒化を中心としていたので、しばしば対立します。
それでも次第にローマ教会の優位が確立し、イングランド協会からは信仰と学問の面ですぐれた聖職者が出現。その中の1人、アルクィンはフランク王国のカール大帝の宮廷で活躍しカロリング=ルネサンスの中心的存在になりました。
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イングランド七王国とは?
イングランド七王国とは、
- イングランド北東部を支配したアングル人のノーサンブリア王国
- イングランド中央部を7世紀頃に支配したアングル人のイーストアングリア王国
- イングランド南東部現在のノーフォーク、サフォーク周辺を支配したイーストアングリア王国
- イングランド南東部、現在のエセックス、ハートフォードシャー、ミドルセックス周辺を支配したエセックス王国
- イングランド南西部、ドーセット、ハンプシャー周辺を支配したウェセックス王国
- イングランド南東部、現在のケント周辺にジュート人が建国したケント王国
- イングランド南部、現在のサリー、イーストサセックス、ウエスト・サセックス周辺を支配したサセックス王国
これらの7つの王国を差しますが、実際には衛星国などを含めるともっと存在します。
やがて、ウェセックス王のエグバートが七王国を統一しイングランド王国が成立したとされますが、実際にはその支配はイングランド南部に留まりブリテン島の北部と西部には及んでいなかったようです。
アルフレッド大王の統一とヴァイキング北海帝国の支配
8世紀から11世紀になると、第2次民族大移動と呼ばれるノルマン人ヴァイキングのブリテン島への移動が断続的に続き、ブリテン島の海岸各地では大陸のユトランド半島を原住地とするデーン人が活動を開始します。
886年、ウェセックス王アルフレッド大王は、ヴァイキングであるデーン人に反撃しロンドンを奪還。同時に境界線を設けてデーン人の移住を認め、法律を制定し州制度を導入、ラテン文芸など学問の保護に努めイングランドの基礎を築きます。
しかし、11世紀に入るとデーン人の大規模な侵攻が再開、イングランドでも内紛が起きるなどしデーン人のクヌートが1016年にイングランド王位についてデーン朝を開き、デンマーク、ノルウェー王を兼務して北海帝国を建国しました。
ところがクヌートの死後は、有力な後継者が出ずデーン朝は崩壊。1042年にはアングロ=サクソン系のエドワード証聖王が復位しました。
エドワードはキリスト教を保護、ウェストミンスター寺院を創建して各地に教会を建設。この時代にイギリスでは三圃制農業が始まり、領主と農奴関係と教会の支配という中世封建社会の基本が形成されます。
ノルマンディー公ウィリアムの征服
しかし、アングロ=サクソン王国は1066年、ドーヴァー海峡を渡って侵攻してきたヴァイキング、ノルマンディー公ウィリアム(ギョーム)にイングランド王、ハロルド2世が敗れて、滅亡してしまいました。
どうして、ハロルド王があっさり敗れたのかというと、この人物、有力貴族ゴドウィン家の出身ながら義弟のエドワード懺悔王の急死で即位したという事でイングランド王としての正統性に乏しかったようです。
おまけにイングランドの北では、弟のトスティが兄の即位に反対し、こちらもヴァイキング、ノルウェー王ハーラルを後見人としてイングランドに攻め込んでいました。
ハロルド2世は、最初に北部のヨーク近郊でノルウェー軍を破り、すぐさま南下してへイスティングスに陣を敷きましたが、ハロルド軍が歩兵主体であるのに対しウィリアムは騎兵を主体としており、戦争はウィリアム優位で進み、ハロルドは戦死してしまったのです。
海のバーサーカーヴァイキング相手に二正面作戦を戦い、しかもイングランド貴族全てが応援しているわけではない戦況で奮闘したハロルド2世は決して無能ではないと思いますが、運が悪すぎましたね。
変質したイングランド
ノルマン公ウィリアムが開いたノルマン朝は、それまでのイングランド王国とは全く異質な王朝でした。
まず、少数者の外来政権であるノルマン朝は国王が広大な領地を所有したほか、アングロ=サクソン系の貴族から土地を奪い大陸から渡って来たノルマン系貴族に土地を与える事で強固な封建体制を築き上げます。
これは、それまでの貴族の寄せ集めのイングランド王国とは大きな違いです。また、ウィリアムはイングランドのみならず、大陸のノルマンディーにも土地を持ち、この傾向は次のプランタジネット朝でも継続します。
ノルマンディー公ウィリアムは、大陸においてはフランス王の臣下であり、イングランドでは王、フランスでは臣下というねじれた現象が起きていて、このねじれが元で英仏百年戦争が勃発する事になりました。
そして、ノルマン朝ではフランス語が公用語であり、貴族も役人もフランス語を話し、フランス文化が花開く事になります。これにより、大陸のフランスの影響をイングランドは受けると共に、多くの文化が重層的に混じる独特なイギリスの文化が形成されていく事につながるのです。
マグナ=カルタと議会政治
1154年、ウィリアムが開いたノルマン朝が断絶。血縁のフランスのアンジュー伯アンリが王位を継承しヘンリ2世となりプランタジネット朝が幕を開きました。
ヘンリ2世はイギリスとフランスにまたがる広大な領土を持っていましたが、ノルマン朝同様に宮廷ではフランス語が使用され、フランスとの一体感が強い時代です。しかし、足元では貴族と教会が力をつけ王権より優位になってきた時期でもありました。
ヘンリ2世の子が、第3回十字軍で有名な獅子心王リチャード1世です。ただ、知名度とは裏腹にリチャードは在位中、ほとんど国内になく戦争に明け暮れており、戦費のみが国民に課され国王への不満を高める事になっていきます。
リチャードが死ぬと弟のジョンが即位しますが、あまり出来がよろしくない王で、カンタベリー大司教の任命権をローマ教皇と争い破門されまたフランス王フィリップ2世と争って敗れフランス国内のノルマンディーの領地を失いました。
これに貴族が猛反発し、1215年マグナ=カルタ(大憲章)を起草してジョン王に認めさせ貴族の権限を保障し国王の権限を制約する事に成功します。そこには、国王が新しく課税する際には、必ず会議を招集し貴族の承認を得るという一文もありました。マグナ=カルタにより「王も法には服する」法治主義の原則がイギリスで確立したのです。
次のヘンリ3世はマグナ=カルタを無視して貴族に課税しようとしたので、貴族はシモン=ド=モンフォールを指導者に反乱を起こしヘンリ3世は捕虜とされます。
こうして1265年には初めて議会が設置され、さらに1295年にはエドワード1世がスコットランド遠征軍の費用を調達すべく議会を招集しました。
以後、イギリスでは身分制による議会政治が開始される事になります。エドワード1世の時代になると宮廷でも英語が使用されるようになり、イギリスはフランスの影響を離れて独自の文化を生み出していきます。
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英仏百年戦争
プランタジネット朝のエドワード3世は、フランスの王位継承権を主張して1339年に百年戦争を起こします。戦争の背景には、三圃制の普及による農業生産力の向上により羊毛産業が発展、羊毛の輸出先となる毛織物工業の盛んなフランドル地方を支配しようと目論んだ事がありました。
一方でフランス側も国内のアキテーヌ地方など、イギリス王室領の奪回を目指します。戦いが長期化するとエドワード3世は、イギリス国内の12歳以上の全ての人口に人頭税を課しました。
これにより全ての階層が重税に苦しみますが、追い打ちをかけるように黒死病が大流行。大勢の農奴が死亡した為、領主は労働力を確保しようと農奴の移動を禁止し、過酷な労働を強制しました。
重税を課された上に自由を奪われた事で農奴が我慢できずに武装蜂起し、ワット=タイラーを指導者に農民一揆、ワット=タイラーの乱を起こします。
農奴反乱を鎮圧したリチャード2世ですが、その後も重税を課す為、うるさい議会を停止するなど貴族や都市の商工業者の反感を買い廃位に追い込まれました。貴族たちは、代わりにランカスター家のヘンリ4世を即位させ、プランタジネット朝が断絶しランカスター朝が開かれます。
次のヘンリ5世もフランスを攻撃しますが、次第にフランス軍に押されていきます。救国の聖女、ジャンヌ=ダルクがフランスに登場した事もありイギリスは敗色濃厚になり、ヘンリ6世時代の1453年百年戦争は終結。イギリスはカレーを除くフランス国内の領土を全て失いました。
バラ戦争で絶対王政の下地が形成
戦争の余波は続き、1455年ランカスター朝のヘンリ6世に対し同じプランタジネット家の傍系のヨーク家のエドワードが王位継承権を主張してバラ戦争が勃発しました。
1461年には、ヨーク朝が成立しますが、王位を簒奪したリチャード3世が暴政を敷くと、大陸に亡命していたランカスター家の後継者ヘンリが1485年のボスワースの戦いでリチャード3世を破って即位し、ヘンリ7世としてテューダー朝を開きます。
バラ戦争でイギリスの貴族は2つの陣営に分かれて争い、内戦の長期化で没落しました。代わって最終的な権力を握ったテューダー朝の王権に権力が集中、絶対王政の態勢が形成されました。
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エリザベス1世絶対王制を確立
16世紀のテューダー王朝でイギリスは強大な王権による絶対王権を確立させます。絶対王政の成立にはバラ戦争による封建領主の没落、それに代わるジェントリと言われる土地貴族層と都市の商人の台頭がありました。また、農村の中間層として農奴から解放されたヨーマンと言われる独立自営農民も成長していきます。
同時にジェントリやヨーマンによる農村毛織物産業の発展に伴って囲い込み運動が進行し、追い立てられた農民は土地を離れ都市に勃興したマニファクチュアでの賃金労働化が進みました。
このような経済発展は封建的、分権的な国家体制ではなく、王権の下に統一された国家機構を必要とします。また、この時代国王をしのぐ権力を持った教会ですが、イギリス・チューダー朝のヘンリ8世は、自己の離婚問題を契機にローマカトリックと決別しイギリス宗教改革を断行。
1534年に首長法を制定して国王を頂点とするイギリス国教会にイギリス教会を造り替え、修道院の解散にも踏み切りプロテスタント化を進めました。
次のエドワード6世の時の一般祈祷書制定などによって教義と教会儀式を整備、メアリ1世の時にはカトリックへの反動があったもののエリザベス1世が態勢を立て直し統一法を制定し国教会支配が確立します。
イギリスの絶対王政の全盛期は、エリザベス1世の時代に相当します。エリザベス女王は宗教改革を完成させ、教会組織の頂点に立って国家を治め王権を確固たるものにしました。
その時代はシェイクスピアの活躍に代表されるイギリス・ルネサンスの開花した時代でしたが、国家財政状況は困難で経済的な繁栄期と言うわけではなく、社会の内部も第一次囲い込みにより、富裕なジェントリ階層と土地を失い都市に流れ込んだ貧困労働者で二極化します。1601年に制定された救貧法は、イギリス社会の悲惨な状態を端的に表しています。
海洋王国への道
16世紀の中期までイギリスは大国スペインに圧倒される弱小国に過ぎませんでした。しかし、イギリスは三圃制による集約農業で生産性を強めて余剰作物を産み出し食べる為の農業から毛織物を中心とする輸出産業を発展させ海外進出を開始します。
初期の活動は先行するスペインの商業活動に対し、私掠船を使った海賊行為が主でしたが、スペインからの独立をはかるオランダを助け、1588年にスペインの無敵艦隊を破って海洋王国への一歩を踏み出しました。
絶対王政の確立後は経済基盤を重商主義に置き、1600年に東インド会社を創設。商人に特権を与えて保護し、海外に富を求めて進出していく事になりました。
また、寵臣のローリー卿を新大陸に派遣しヴァージニア植民地への進出を図ったりもしています。ちなみにヴァージニアとは「私は英国と結婚した」と宣言し生涯独身を貫いたエリザベス女王の呼び名ヴァージンクイーン(処女王)に由来する言葉です。
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清教徒革命と共和政樹立
1603年エリザベス1世が死去、子供がなかったのでテューダー朝が断絶。スコットランドからスチュアート家のジェームズ1世を迎えスチュアート朝が開かれます。
これによりイングランドとスコットランドは同君連合という形式になりますが、実際はイングランドが優勢でスコットランドの従属が継続していました。ジェームズ1世は絶対王政をより強化しようとイギリス国教会の態勢を強化し、カトリック及びピューリタンを弾圧します。
次のチャールズ1世も絶対王政の強化を目指したため、議会と激しく対立。イギリス議会は権利の請願を提出し不当な課税や法律によらない逮捕の禁止などを求めますが、チャールズ1世はこれを無視して議会を解散。
その後11年間に渡り議会を招集せず側近だけと独裁政治を開始します。しかし、1640年スコットランドの反乱に手を焼いたチャールズ1世は、戦費を得るために議会を招集しますが、恣意的な議会運営に貴族が猛反発してすぐに解散。
その後、再招集された長期議会で国王と貴族の対立は決定的となり、1642年議会派は武装して内乱が勃発します。議会軍を指導するピューリタン、クロムウェルは鉄の団結力を持つ部隊を率いて国王軍に連戦連勝し、1649年には国王チャールズ1世を捕らえて処刑しました。
清教徒革命と呼ばれるこの戦いにより王政は打倒され、イギリスに共和政が実現します。
英蘭戦争とクロムウェル独裁
クロムウェルは、その後カトリックの勢力排除を口実にアイルランド征服とスコットランド征服を実行。さらに1651年には航海法を制定し、イギリスに商品を輸送する船舶をイギリス船か産出国の船に限定して自国の産業を守ろうとします。これには商売敵のオランダが貿易の自由を求めて激しく反発し、17世紀後半から3次にわたる英蘭戦争の原因になります。
悪辣な王を倒してイギリスの支配者になったクロムウェルですが、1653年に自ら護国卿となりピューリタン精神に基づく独裁政治を開始すると厳格な規律と統制経済に疲れた国民や貴族は急速にクロムウェルの政治から離れていきました。
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王政復古と名誉革命
こうして1658年、クロムウェルが死ぬと世論は王政復古に傾き、1660年に大陸に逃れていたチャールズ2世を復帰させます。しかしチャールズ2世は、今度はカトリックを復興させようとしたので議会は審査法を制定してカトリック教徒の公職就任を禁止し、人身保護法で逮捕状なしの拘束を禁止するなど国王と議会の対立が続きました。
また、チャールズ2世が航海法を再制定した事で1665年には第2次英蘭戦争が始まり、1666年にイギリス海軍は四日海戦でオランダに敗北しました。チャールズ2世は、カトリックへの復帰を狙い、1670年ルイ14世とドーヴァーの密約を結んだ事で議会の強い反発を受けます。
次のジェームズ2世もカトリックの復興にこだわったために議会との対立は続き、国王に妥協的なトーリー党と国王権力の制限を図るホイッグ党という二大勢力が産まれ、後の政党政治へと繋がっていきます。
ジェームズ2世のカトリック復興の姿勢に危機感を持った議会は、トーリー党とホイッグ党が一致して国教会の維持を図り1688年に名誉革命を起こしジェームズ2世を追放。ジェームズ2世の娘、メアリと夫でオランダ総督のウィレム3世を迎えました。2人は議会が示した権利の宣言を承認して権利の章典として交付します。
こうして名誉革命を成し遂げたイギリスは、絶対王政から共和政を経て、君臨すれども統治せずの言葉で有名な立憲君主制へと移行しました。ウィレム3世はオランダ総督でもあるので、イギリスとオランダはこの時点で同君連合の状態になった事になります。
英蘭戦争を戦う競争相手のイギリスとオランダですが、両者が手を結んだのは、当時ルイ14世の統治下で強大化していたフランスの存在がありました。
前編まとめ
イギリスの歴史前編は、ここまでで終了です。元々、ローマの属州だったイギリスは柔軟に外からの勢力を取り込みながら、発展していき、英仏百年戦争で大陸の領土を失い、イギリス国教会が成立した辺りから大陸から切り離されて島国として独自の発展を遂げていきます。
そしてエリザベス1世の時代にイギリスは絶対王政を迎えますが、強力な国王権力を巡り、貴族階級と大地主、そして彼らが代表者を出す議会が国王と権力を巡り対立、ついには名誉革命により絶対王政が崩れ議会制民主主義の幕が開くのです。
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