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この記事の目次
海洋王国への道
16世紀の中期までイギリスは大国スペインに圧倒される弱小国に過ぎませんでした。しかし、イギリスは三圃制による集約農業で生産性を強めて余剰作物を産み出し食べる為の農業から毛織物を中心とする輸出産業を発展させ海外進出を開始します。
初期の活動は先行するスペインの商業活動に対し、私掠船を使った海賊行為が主でしたが、スペインからの独立をはかるオランダを助け、1588年にスペインの無敵艦隊を破って海洋王国への一歩を踏み出しました。
絶対王政の確立後は経済基盤を重商主義に置き、1600年に東インド会社を創設。商人に特権を与えて保護し、海外に富を求めて進出していく事になりました。
また、寵臣のローリー卿を新大陸に派遣しヴァージニア植民地への進出を図ったりもしています。ちなみにヴァージニアとは「私は英国と結婚した」と宣言し生涯独身を貫いたエリザベス女王の呼び名ヴァージンクイーン(処女王)に由来する言葉です。
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清教徒革命と共和政樹立
1603年エリザベス1世が死去、子供がなかったのでテューダー朝が断絶。スコットランドからスチュアート家のジェームズ1世を迎えスチュアート朝が開かれます。
これによりイングランドとスコットランドは同君連合という形式になりますが、実際はイングランドが優勢でスコットランドの従属が継続していました。ジェームズ1世は絶対王政をより強化しようとイギリス国教会の態勢を強化し、カトリック及びピューリタンを弾圧します。
次のチャールズ1世も絶対王政の強化を目指したため、議会と激しく対立。イギリス議会は権利の請願を提出し不当な課税や法律によらない逮捕の禁止などを求めますが、チャールズ1世はこれを無視して議会を解散。
その後11年間に渡り議会を招集せず側近だけと独裁政治を開始します。しかし、1640年スコットランドの反乱に手を焼いたチャールズ1世は、戦費を得るために議会を招集しますが、恣意的な議会運営に貴族が猛反発してすぐに解散。
その後、再招集された長期議会で国王と貴族の対立は決定的となり、1642年議会派は武装して内乱が勃発します。議会軍を指導するピューリタン、クロムウェルは鉄の団結力を持つ部隊を率いて国王軍に連戦連勝し、1649年には国王チャールズ1世を捕らえて処刑しました。
清教徒革命と呼ばれるこの戦いにより王政は打倒され、イギリスに共和政が実現します。
英蘭戦争とクロムウェル独裁
クロムウェルは、その後カトリックの勢力排除を口実にアイルランド征服とスコットランド征服を実行。さらに1651年には航海法を制定し、イギリスに商品を輸送する船舶をイギリス船か産出国の船に限定して自国の産業を守ろうとします。これには商売敵のオランダが貿易の自由を求めて激しく反発し、17世紀後半から3次にわたる英蘭戦争の原因になります。
悪辣な王を倒してイギリスの支配者になったクロムウェルですが、1653年に自ら護国卿となりピューリタン精神に基づく独裁政治を開始すると厳格な規律と統制経済に疲れた国民や貴族は急速にクロムウェルの政治から離れていきました。
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王政復古と名誉革命
こうして1658年、クロムウェルが死ぬと世論は王政復古に傾き、1660年に大陸に逃れていたチャールズ2世を復帰させます。しかしチャールズ2世は、今度はカトリックを復興させようとしたので議会は審査法を制定してカトリック教徒の公職就任を禁止し、人身保護法で逮捕状なしの拘束を禁止するなど国王と議会の対立が続きました。
また、チャールズ2世が航海法を再制定した事で1665年には第2次英蘭戦争が始まり、1666年にイギリス海軍は四日海戦でオランダに敗北しました。チャールズ2世は、カトリックへの復帰を狙い、1670年ルイ14世とドーヴァーの密約を結んだ事で議会の強い反発を受けます。
次のジェームズ2世もカトリックの復興にこだわったために議会との対立は続き、国王に妥協的なトーリー党と国王権力の制限を図るホイッグ党という二大勢力が産まれ、後の政党政治へと繋がっていきます。
ジェームズ2世のカトリック復興の姿勢に危機感を持った議会は、トーリー党とホイッグ党が一致して国教会の維持を図り1688年に名誉革命を起こしジェームズ2世を追放。ジェームズ2世の娘、メアリと夫でオランダ総督のウィレム3世を迎えました。2人は議会が示した権利の宣言を承認して権利の章典として交付します。
こうして名誉革命を成し遂げたイギリスは、絶対王政から共和政を経て、君臨すれども統治せずの言葉で有名な立憲君主制へと移行しました。ウィレム3世はオランダ総督でもあるので、イギリスとオランダはこの時点で同君連合の状態になった事になります。
英蘭戦争を戦う競争相手のイギリスとオランダですが、両者が手を結んだのは、当時ルイ14世の統治下で強大化していたフランスの存在がありました。
前編まとめ
イギリスの歴史前編は、ここまでで終了です。元々、ローマの属州だったイギリスは柔軟に外からの勢力を取り込みながら、発展していき、英仏百年戦争で大陸の領土を失い、イギリス国教会が成立した辺りから大陸から切り離されて島国として独自の発展を遂げていきます。
そしてエリザベス1世の時代にイギリスは絶対王政を迎えますが、強力な国王権力を巡り、貴族階級と大地主、そして彼らが代表者を出す議会が国王と権力を巡り対立、ついには名誉革命により絶対王政が崩れ議会制民主主義の幕が開くのです。
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